白石 良夫 最後の江戸留守居役 目 次  緒言  剛直の人と留守居役  江戸留守居の日々  大政奉還と江戸諸藩邸  王政復古から戊辰戦争へ  佐倉藩臨時京都藩邸  維新政府官吏への道  『学海目録』刊行始末      ——あとがきにかえて──   依田学海略年譜   主要参考文献 [#この行3字下げ]資(史)料を引用するに際して、原文のかなづかいを統一し、ふりがなや送りがなを補うなどの処置をした。また、漢文は書き下し文に改めた。 [#改ページ] [#見出し]緒 言 †あるパーティー[#「あるパーティー」はゴシック体]  明治一一年(一八七八)四月二八日、内務大書記官松田|道之《みちゆき》(のち東京府知事)は四ツ谷鉄砲坂の自邸で招宴を催した。参議伊藤博文をはじめとする政府高官も一座した席で、あるじの松田がくわだてていたのは、歌舞伎改良の必要性を当事者たちに説くことであった。そこで、新富座の座元守田勘弥にひきいられて市川団十郎・尾上菊五郎・中村仲蔵・沢村宗十郎も招かれた。  このパーティーには、かねてから松田と志を一にしていた地方官会議書記官の依田学海《よだがつかい》も出席していた。  松田は、まず劇場の建築結構がよろしくないといった。そして、演じる内容は、高位高官あるいは外国の貴賓たちの見るに堪え、善悪正邪の条理の正しいものでなければならない、淫猥のはなはだしいものは当然けずり去らねばならぬ、と論じた。  伊藤参議もその演劇論を開陳する。西洋の劇は構想が雄大である。演技はおおむね温和であり、舞台上で剣劇闘争の技といって少ない。それらは台詞《せりふ》のなかで語られることであって、男女の愛情表現も、淫らな動作にいたることがない。俳優の社会的地位も高く、士君子といえども軽視することがない。日本でもかくありたきものである、と。  学海も演劇改良の理念を述べたてる。 「まず第一に重要なのは、脚本の趣向である。第二には台詞。次は衣服や道具の類である。脚本の趣向とは、事実を曲げないで、ものごとの道理・筋道を正しくし、それだけで歴史の鑑《かがみ》として堪えるものでなければならない、ということである。台詞は、豪傑の士、節義の士の人となりをおのずから髣髴《ほうふつ》とさせるものでなければならない。現実にありえないような台詞は、言わせるべきではない。衣服・道具も、かならずその時のものを用いて、現代のものを使わないよう用心すべきである。もっとも、それは形を摸すのであって、一寸たりとも違わないというのではなく、自然とその時代の風が知られるように、ということである」 †文学史が語る学海と語らない学海[#「文学史が語る学海と語らない学海」はゴシック体]  この日の出来事は、それまで河原乞食と蔑称されていた歌舞伎役者が縉紳家《しんしんか》と席を同じくし、封建時代の旧弊な芝居を、政府あるいは知識人の手によって改良しようとした最初の試みとして、近代演劇史上、劃期的なものであったとされる。そして、学海は、作家として評論家として、改良運動の先頭にたって活躍する。  だが、明治二二年(一八八九)に歌舞伎座ができ、その座主である福地|桜痴《おうち》と団十郎とが提携することで学海と団十郎のあいだが疎遠になり、リーダーの地位も福地にとってかわられた。その後、学海は川上音二郎らの壮士芝居と結んで、女優の起用など新演劇に活路を見いだそうとする。しかし、ここでも坪内逍遙の擡頭によって、しりぞかざるをえなかった。  学海の改良運動の挫折は、歌舞伎においては、かれの持論であった史実重視が原因であった。かれの演劇論は、九代目団十郎の嗜好にあってはいたし近代的史劇の萌芽でもあったのだが、荒唐無稽をその生命とするといってもいい歌舞伎とは、まったく別の方角を向いていたからである。新演劇においては、ライバルの逍遙は西洋文学紹介のパイオニア。対して学海は、儒学の勧善懲悪的文学観から抜けきらなかった。新時代の文学運動の指導者としての資質に差のあることは、だれの目にも明らかであろう。それにくわえて、学海の改良は、上からの運動すなわち政策の枠組のなかでしか発想されていない。そこにも、かれが劇壇で孤立せざるをえない因があった。  かくして、演劇改良の情熱をうしなった学海は、以降、詩作に耽り、たのまれれば書を揮毫し序跋の類を書き、旅をしてはその紀行文をものするという日々をおくる。  普通の近代文学史は、演劇改良運動に手をそめる以前の学海、および演劇からはなれて以後の学海には、筆をおよぼさない。そして、右のような次第であるから、文学史上の学海への評価はけっして高いとはいえない。はっきりと否定して葬り去ってしまう文学史家もいる。  だがしかし、学海はもともと漢学者である。当時一流の漢詩文作家で、かの森鴎外の少年時代の漢文の師でもあった。晩年、弟子の漢文の添削をしたり詩集を刊行したりする学海は、だから、文学者として落魄しているわけではない。むしろ、文人学海の本来のすがたにかえったのだ。  かくいう私も、学海を明治の演劇改良家ぐらいにしか理解していなかった。だが、かれの日記『学海日録《がつかいにちろく》』を読む機会をあたえられて、私はこの文学者の知られざる一面に接することができた。それは、学海の三十代、徳川幕府のため佐倉藩のために、江戸や京の町を駆けまわる青春があった、ということである。文学者の修行時代といったことばからうける、時代に受け身の青春ではなく、歴史をうごかす歯車の一つとしての、じゅうぶんに自己主張をもった青春が、この儒者漢学者の生涯のひとこまにあった、ということである。  学海が上京して徳川氏救解運動につとめていた慶応四年(一八六八)三、四月の部分を読んでいたころ、たまたま並行して高田宏氏の『言葉の海へ』を読むことがあった。近代国語辞書の先駆『言海』の著者大槻文彦の伝記であるが、そのなかで、文彦も、学海上京とおなじころ、やはり京都に潜入して情報活動にたずさわっていたことを知った。文彦は、新政府軍と干戈《かんか》をまじえている仙台藩の藩士である。学海と文彦はまだ面識がなかったようだが、奇しくも、ちょうどこの時期、西村茂樹(佐野藩)や川田|甕江《おうこう》(備中松山藩)も京都に入っている。西村も川田も大槻も、そして学海も、いずれも旧幕府シンパであり、それぞれの属する藩の重要任務をおびての上洛であった。のち「洋々社」をはじめとする文学同好会でいっしょになって活躍し、太政官修史局《だじようかんしゆうしきよく》・文部省編輯局、あるいは大学などで近代日本の学界・思想界に重きをなしたかれらが、戊辰《ぼしん》戦争の当事者として激動を潜りぬけていたという事実を知ることは新鮮だった。 †かくされた青春[#「かくされた青春」はゴシック体]  歴史上ある一人の人物が、たとえば二つの分野に事蹟をのこしているばあい、一方の分野の専門家は、その人物の他方の分野の事蹟を知らないということが、往々にしてある。依田学海についても同様のことがいえる。  日本史の一部の研究者は、文学者依田学海よりも、依田七郎がついていた佐倉藩江戸|留守居役《るすいやく》という役職、あるいは依田右衛門二郎と改名して就任した維新初期議事機関の佐倉藩選出議員(公議人)のほうに関心をはらうであろう。また、地元佐倉でも、近代文学史に名をのこす学海を知る人は、学海が佐倉出身であることに誇りをもっても、佐倉藩に尽くした学海の多大な功績を知らないことが多い。反対に、幕末郷土史関係の史料で目にする依田某を、明治になって文学史に登場する学海と結びつける人は、意外に少ない。  本書のねらいは、学海が佐倉藩江戸留守居役をつとめた慶応三年・同四年(明治元年)の日記を読むことによって、明治の一知識人のかくされた青春を描くということにある。わずか二年間ではあるが、日本にとって激しい変化の二年間であり、それは学海の身の上にもいえることであった。 [#見出し]剛直の人と留守居役 [#この行10字下げ]『学海日録』原本(財団法人無窮会専門図書館所蔵)と若き日の依田学海(石井豊氏蔵写真) †剛直の人の屈辱の日々[#「剛直の人の屈辱の日々」はゴシック体]  慶応三年(一八六七)三月二五日、江戸留守居役となってまだ日のあさい佐倉藩士依田学海(三五歳)は、仕事で外出したついでに、西村|鼎《かなえ》のところにたちよった。西村鼎とは、のち明治の思想界・教育界に重きをなした西村茂樹のことである。学海とおなじ佐倉藩士の家に生まれたが、このころ佐倉の支藩である佐野藩に招かれてその藩政にたずさわっていた。学海より五歳の年長であった。  学海は、ここ数日のあいだに鬱積したものを西村にぶつけた。学海の愚痴をきいていた西村はこういった。 「留守居役なんてのは、恥しらずの臆病ものをえらんでやらせるべきものだ。そうでなくては勤まらない。きみのような剛直の人は、その任ではない」  学海が留守居役たることの辞令を受けたのは先月の二月二九日である。当時、佐倉藩は留守居役を二人おいており、先輩の相棒は野村弥五右衛門であった。三月一五日、その野村の家で諸藩留守居の会合があったので、学海も出席した。いわゆる留守居組合で、学海にとって最初の留守居体験であった。  話にきいていたとはいえ、やはり失望せざるをえなかった。名目は職務上の協議といいながら、実際は飲み食いの会にすぎなかったからだ。その初めに得た印象を、学海は日記に「太平の余習になれて当世の務めを知らず。笑ふべく悲むべく歎ずべく憎むべし」と記した。天下太平の時代が忘れられず、いまだに現今の時勢を理解していない、と。  そして、二二日から諸藩藩邸へ新任の挨拶まわりにでかける。学海屈辱の日々の始まりであった。 [#この行2字下げ]廿二日。けふより諸藩の留守居職の家をとふて、新任なるよしを告げて公事《くじ》を打ちたのむ。礼文のしげきこと、いふばかりなし。虚文にして要なきこと多く、徒《いたづら》に労苦するのみ。留守居職のいやしきこと、実に口舌を以て述べがたし。男子たるべきものゝすべき職にあらず。大息の余りに賦す。   巧語諛言任口陳  巧語諛言《こうごゆげん》口に任せて陳《の》ぶ   一双頑膝屈難伸  一双の頑膝屈して伸び難し   忍将百錬千磨銕  忍びんや百錬千磨の銕《てつ》を将《も》つて   枉擬沿門売媚人  枉《ま》げて門に沿ひ媚を売る人に擬するに [#この行4字下げ](いつわりへつらいの言葉を出任せに発す。かたくななわが膝は、たやすく伸び縮みできるものではない。とても堪えられるもんじゃないよ。鍛え研《みが》かれた鉄のごときわが性格で、ひとの門口に立って媚を売るまねなんて。) [#この行2字下げ]廿三日。雨甚し。けふも又きのふの如し。屈辱ますます甚し。詩有りて云ふ、   匆忙不得半時閑  匆忙《そうぼう》にして得ず半時の閑   |※[#「敬/手」、unicode64ce]※[#「足へん+忌」、unicode8dfd]曲拳腰欲彎  |※[#「敬/手」、unicode64ce]※[#「足へん+忌」、unicode8dfd]《けいき》曲拳して腰|彎《まが》らんと欲す   倦極轎中成仮寐  倦《う》み極まりて轎中《きようちゆう》に仮寐を成せば   夢魂依旧落渓山  夢魂は旧に依つて渓山に落つ [#この行4字下げ](半時の間《ま》も得られないこの慌ただしさ。手を挙げたりひざまずいたり、もう腰が曲がりそうだ。くたびれはてて駕籠のなかでついうとうと。夢に見るは、なつかしい佐倉のあの山あの川。) [#この行2字下げ]廿四日。諸藩をめぐること猶《なほ》きのふの如し。詩有りて云ふ、   上輿下輿一何忙  上輿下輿《じようよげよ》一に何ぞ忙しき   満路塵埃汗若漿  満路の塵埃に汗|漿《しよう》の若《ごと》し   想殺去年此時節  想殺《そうさつ》す去年此の時節   尋花問柳酔春芳  花を尋ね柳を問ひ春芳に酔《ゑ》ひしを [#この行4字下げ](駕籠に乗ったり降りたり、なんて忙しい。ほこりにまみれて、汗はまるでおもゆのようにねっとり。思い出すなあ、去年のいまごろは桜や柳をたずねて遊び歩いたものを。)  連日、日記にその憤懣を書きつける。作る漢詩も、それ以前の江戸市中行楽地めぐりのごときではない。漢詩人学海のうさばらしである。  二五日もまた学海は諸藩藩邸をめぐった。西村鼎から励ましとも同情ともつかない慰められ方をしたのは、この日である。  二六日は休日なので、藩邸の馬場に出て乗馬の練習をする。留守居がその用務で外出するときは、公用の駕籠と馬の使用がゆるされる。というよりも、緊急の場合には、いやでも馬に鞭うって江戸市中を駆けなければならない。少年のころ習ってはいたが、長じて読書の人となってからというもの、馬に乗るような機会もなかった。そこで、急遽、練習を始めたのである。だが、ながい空白はいかんともしがたく、鞍でしたたか腰を撲《う》って、馬夫たちの笑いを買った。  二七日は下谷以遠の諸藩邸への挨拶まわり。次の日は一昨日の怪我がたたって藩邸まわりは中止したが、夕刻からの留守居の会合には出席した。二九日も留守居会合があり、やはりでかけていった。 †留守居は大名家の外交官[#「留守居は大名家の外交官」はゴシック体]  なぜ、かくも学海は、この留守居役という仕事になじめないのであろうか。それにはまず、留守居がいかなる任務をになっているか、そしてその実態はいかがであったか、といったことを理解しておかなければならない。 「留守居」とよばれる役職名は、幕府にも大名諸家にもある。だが、幕府留守居のほうは、幕末には職務権限のほとんどない閑職であって、学海らとの直接の関係もないので、ここでは、学海がそれであった大名家の留守居についてのみ解説することとする。 「留守居」とは本来、読んで字のごとく、国元の居城および江戸・京都・大坂などの各屋敷において、藩主の不在時に、これにかわって留守をまもる役職のことである。したがって、これらの役には家老クラスの上席者が任命された。かれらの主たる職務は、藩邸などの管理取締、および藩内外の諸問題の統括であった。  うち藩の外交問題に実務レベルでたずさわる役人がいた。かれらは、江戸屋敷などにあって、外交上の問題の先例を調査したり、幕府や大名諸家との連絡調整、各種情報の収集などの任務をこととする。どの藩でも、ふつう中級程度の家柄のものが選ばれた。かれらの正式名称は大名家によってさまざまで、「聞番」「聞役」「公儀使」「御城役」「御城使」などとよばれた。ところが、そのうち、先の家老クラスの留守居が担当していた幕府との日常的な折衝の仕事を、かれら中級官吏に代替させるようになった。そうすると、この実務役人をも「留守居」と呼ぶようになって、やがては、「留守居」の名称はこちらをさすことのほうが一般的となった。  すなわち、この留守居は、大名家における外交のエキスパートである。日常業務でいえば、たとえば、藩主が江戸城登営など外出のさいには、かならず先回りして、用件その他の手配を整えておかなければならない(これを「御先詰《おさきづ》め」という)。  他藩とのあいだにトラブルが生じたときなど、藩重役の手足となって交渉や根回しに奔走するのもこの留守居である。場合によっては、全権を委任されることもある。有能な留守居なら、一藩の外交政策に参画もするし、藩主の外交上のたよりがいのある相談相手となることもあった。実務役人とはいい条、家臣団のなかではその家格のわりには藩主にちかい特殊な場所にいるのであって、その発言力は藩内できわめて大きい。それだけまた、責任も重いといわなければならない。  学海が拝命した職は、この留守居であった。ちなみに、佐倉藩での正式名称は「聞番」である。  この大名留守居が幕藩体制下において果たした制度的ないし政治的役割に関しては、近年ようやく、服藤弘司・笠谷和比古・山本博文ら諸氏によって解明されるところとなった(本書巻末参考文献)。私の「留守居」理解も、これら先学のすぐれた業績に負っていることを断っておきたい。 †刃傷事件も留守居の責任[#「刃傷事件も留守居の責任」はゴシック体]  留守居は、大名家にとってきわめて重要な役職である。留守居役の能力の有無が、一藩の命運を左右することもあるといって過言ではない。その好例を、浅野《あさの》内匠頭《たくみのかみ》の刃傷事件について見てみることにしよう。  元禄一四年(一七〇一)三月一四日、勅使接待役の赤穂藩主浅野内匠頭が、江戸城内松の廊下で刃傷におよんだ。相手は高家《こうけ》筆頭の吉良《きら》上野介《こうづけのすけ》であった。内匠頭は即日切腹、領地赤穂五万石は没収、と決まった。翌月の一八日には赤穂城明け渡しがあった。  ところで、なぜ内匠頭は上野介に切りつけねばならなかったか。幕末の歴史家飯田忠彦の『野史《やし》』(巻一八一)は次のようにつたえる。  浅野内匠頭は、その人となり強梗で、屈して人の下につくことを欲しない。勅使接待役を仰せつかったときも、その故実儀式の指南をうけるべき高家吉良上野介にたいして阿諛《あゆ》しない姿勢で通した。当然のごとくに行われていた賄賂の類も贈らなかった。ために、双方のあいだがしっくりいかなくなった。上野介はなにごとにも冷たく接するようになる。 「なにぶん儀礼には暗うござるゆえ、よろしくご教誨《きようかい》くだされたく」 「それがしとて諸礼を諳《そらん》じているわけではない。それにいまは行事にかかっていて、いちいち他人に問い合わせる暇もない。ご自身で適宜判断して処せばよろしかろう」  内匠頭が勅使へのもてなしについて尋ねると、 「毎日贈り物をとどけ、御機嫌うかがいに行くように」 と上野介は指図した。内匠頭はそのことを老中に報告したが、老中は言った。 「そんな必要はない。両三度でよろしい」  内匠頭は老中の言を是とした。だが、それを伝えきいた上野介は内匠頭を難詰する。 「伝奏《てんそう》のことはわれらが家に任ぜられた仕事である。ほかのだれもあずかり知らぬこと。浅野殿は私事をもって公事をないがしろにするおつもりか」  内匠頭は老中の言を楯に抗弁した。だが、かえってそれで上野介が機嫌をそこねた。 「今後、貴公とは共に事をはこぶこと、致しかねる」  内匠頭は深く怨みをふくむこととなる。  さて、問題の三月一四日、江戸城白書院において答詔の礼がおこなわれる日、勅使登城前になって、内匠頭が廊下で上野介に尋ねた。 「勅使御登城のさい、それがしはいずこで御迎えいたせばよろしいか」 「これはまたあさはかなことを。期のせまったいまごろになってさようなお尋ねとは。浅野殿、お笑いぐさでござるぞ」  ちょうどそのとき、将軍生母桂昌院付きの梶川与三兵衛がやって来て、内匠頭に、儀式が終わったら知らせてほしいと申し出た。内匠頭は承知したが、かたわらの上野介が、 「これ、相談する相手が違うではないか。そのようなことは、それがしにお申し付けなされ。でないと恥をかきまするぞ」 と聞こえよがしの嫌味たっぷりにいった。内匠頭は内心ムッとしたが、そこは堪え忍んで立って行こうとする。それを追うように上野介の声、 「はてさて、礼儀を知らぬ田舎侍には困ったもの。今回の勅使接待役は人選を誤ってござる」  さしもの内匠頭も堪忍袋の緒を切って、おなじみ刃傷松の廊下の場面が現出するのである。  以上の話はもっとも巷間に流布した説であり、私たちは、芝居や映画・テレビの忠臣蔵赤穂浪士物でくりかえし見せられてきた。典礼儀式に暗い浅野内匠頭が、その指南役である吉良上野介から、ことあるごとにいじめをうける。内匠頭は万事、建前どおり事にあたろうとする。勅使への贈り物についても、また、上野介への謝礼についても、規定以上のものを考慮しない。上野介はそれとなく賄賂を要求するのだが、武骨一辺倒の内匠頭はそれを潔しとしない。気のきかない田舎侍を相手に、上野介のいじめは度を過ごす。  日本人に浸透した右のごとき俗説が、はたして刃傷事件誘発の真相であるのかどうか。だが、ここではそれが真相であったと仮定して、話をすすめる。  上野介が内匠頭に冷たくあたり、勅使接待の役儀をわざと教えようとしなかったのは、赤穂藩からの賄賂(おだやかな言い方をすれば、付け届、あるいは謝礼)が少なかったからにほかならない。この少なかったというのは、世間の相場にてらしての話であるが、世間の相場には公式の規定というものがない。すべては慣習によって決められる。円滑に事をはこぶためには賄賂も必要、となれば、まずもってその慣習を調べなければならない。  そして、そのような下世話な仕事は、当然、家臣がやるべきことである。  上野介が冷淡で頼りにならないというなら、前回、前々回の役目についた大名家に尋ねるという手もある。また、勅使接待役は浅野内匠頭だけが勤めていたのではなく、同役には伊予吉田藩主伊達|左京亮《さきようのすけ》がいた。伊達家ではさしたる故障がない。大名家としての家格は、江戸城|柳《やなぎ》の間《ま》詰めで浅野家とは同じなのだから、伊達家に行って問い合わせすることもできた。なによりも内匠頭自身、一九年前におなじ勅使接待の役をつとめたことがある。浅野家にそのときの記録はのこっていたろうし、家臣の古株連には当時のことを覚えているものもいたであろう。  勅使接待にかかわる先例やこまごまとした行事・規則のことについて、その調査、関係諸機関への照会、連絡、調整など、これらもすべて実務役人のやるべき仕事である。  ここまで話がくれば、付け届の相場にも精通したこの実務役人こそが、「留守居」にあたるということに気づかれるであろう。内匠頭が勅使接待役を拝命したそのときから、赤穂藩江戸留守居役は、藩主がこの役目を遺漏なくつとめられるよう準備にかからなければならなかった。吉良邸にでむいて事務レベルの折衝をするのも、じつは留守居の職務であった。必要とあらば、袖の下を見せて、「なにとぞよしなに」の一言も発しなければならなかったのだ。  したがって、勅使到着の直前になって、その出迎え方を尋ねるなど、しかも藩主みずからがそれを聞いてまわらねばならないなど、上野介ならずともいぶかしく思うのは当り前である。浅野殿の留守居はいままで何をしてござったかといわれても、おかしくない。  この事件は、幕府のがわからすれば、場所柄もわきまえない内匠頭の短慮が直接の原因であるが、これを赤穂藩という組織内の問題にうつしたとき、その責任が、職務を怠った留守居役人にあることは歴然としている。  刃傷事件にいたるまでの芝居や映画には、この留守居役が登場しない。登場してもあまり印象にのこらず、トラブルは内匠頭と上野介との個性の衝突のごとくにえがかれるのが常となっている。そちらのほうが見せ物としての華があるからなのだろう。だが、現実の刃傷事件は見せ物ではない。もしほんとうにこの事件が、芝居のように内匠頭と上野介との個性の衝突であるとするならば、赤穂浅野家の江戸留守居は、やるべき仕事をしていなかったということになる。私たちが俗説で知る内匠頭の言動は、はしなくも、留守居役人の無能さかげん怠慢さかげんを際立たせている。 †留守居は社用族のはしり[#「留守居は社用族のはしり」はゴシック体]  ところで、右のようなきわめて重要な任務をおう留守居とはあい入れないイメージが、従来の留守居像には根強くあった。財政を圧迫するほどに藩の公金をつかって遊興にふける徒輩、というイメージである。奢侈にあけくれて、ときには市内の盛り場などでいざこざをおこす留守居に、幕府当局はしばしば自粛を警告する。学海がはじめて留守居寄合に出たときに嘆いたのも、この留守居像と一致する。  藩政の中枢にかかわる留守居と藩の金で豪遊する留守居。しかし、この二つの留守居のイメージの相違は、留守居個々人の人格や時代の違いといったことではない。どちらも同じ留守居の実像であった。  大名家の渉外担当官である留守居たちは、先例旧格の照会や情報交換などを目的とする、留守居組合とよばれるグループを組織していた。それは、家格が同じどうしの大名家の留守居で構成する同席組合、大名の親類関係で構成する親類組合、藩邸の近隣関係で組織する近所組合などの構成基準で作られていた。留守居にとってもっとも大事なのが情報のネットワークであることはいうまでもない。そして、その機能を担っているのが、この留守居組合なのであった。したがって、各藩の留守居は、かならずどれか一つまたは複数の留守居組合に所属して日常的に活動していた。  遊興にふける留守居というイメージは、じつにこの留守居組合の会合によって作られたものである。かれらは、情報交換や留守居どうしの懇親のためと称して、高級料亭や遊所でその集まりをもよおす。払いは藩の公費でおとされる。いわば、今日の社用族のはしりといっていい。留守居といえば、そういったイメージが、これまで強調されてきた。のちにくわしく読むことになるが、留守居組合での煩瑣な儀礼、料亭での常軌を逸した宴会等々、学海の日記の記述は、定着した留守居像をまさに資料的に裏づけるものである。  だが、ここで留守居の名誉のためにいっておかなければならないのは、寛政の改革では解散令までだされたこの留守居組合が、それでもなお幕末まで存続した、という事実である。財政を圧迫するとか社会風紀上害悪になるとかのみであるなら、留守居・留守居組合の制度を廃止すればすむ。幕府権力をもってしてもそれが実行できなかったのは、また財政に逼迫した大名家がどこも留守居の職を廃さなかったのは、なぜか。それは、その高い情報機能ゆえ、そして大名家どうしのトラブルの自力処理による幕府行政の簡素化のゆえであった。幕府も大名家もそれを必要としたからにほかならない。  茶屋や遊所での遊興は、情報の提供と供与の、互いの便宜をはかりはかられる人間関係の場として必要であった。考えてもみるがいい。幕府と大名家のあいだ、また諸大名間によこたわる利害損得というものは、きわめて複雑にいりくんでいる。そこには建前と本音がこれも複雑に混在していて、大名諸家がほんとうに欲しているのは、本音の情報なのである。そのためには、外交官である留守居どうしの不断の友誼的交際が必要なのはいうまでもない。先の赤穂藩留守居がそういった交際に不得手だったというのなら、それは赤穂藩にとってこのうえもない不幸だったというべきである。  それは情報合戦だけにとどまらない。たとえば大名家どうしに紛争が生じたばあい、幕府はふつう、評定所《ひようじようしよ》に訴訟がもちこまれるまえに、相対《あいたい》つまり当事者間での問題解決を望む。そして、さきにもすこし触れたが、それぞれの前線に出てきて外交折衝するのが、この留守居役なのである。こういったときにも、留守居役人どうしの常日頃の親睦が、問題解決をスムーズにする。  大名家が苦しい台所事情に目をつむっても留守居組合の会合に公費を支出する、しばしば羽目をはずす留守居の存在を幕府が黙認する、これらはいずれも右のような理由からであった。留守居のもつ相異なるイメージは同じ留守居の実像であるといったが、それは表裏一体、留守居の任務遂行には、ともに必要不可欠の要素なのであった。 †最後の留守居[#「最後の留守居」はゴシック体]  ところで、藩の金をつかって遊興にふけり、藩財政を圧迫し、市中でしばしば問題をおこすという留守居のマイナスイメージを現代の研究者に刷り込んで、私たちに先入主を植えつけてしまった最大のものに、「御留守居交際」という一文がある。明治三○年に雑誌『旧幕府』(第四号)が、幕末に帝鑑《ていかん》の間《ま》詰め大名家の留守居役だった古老に聞書きしたものだが、そこには、寄合でのこまかい規則や習慣が要を得て述べられており、留守居当事者の証言として、留守居研究の必読文献のひとつとなっている。  聞書きをとられた古老とは依田|百川《ももかわ》翁、すなわち、本書の主人公、学海先生その人である。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、江戸城での大名の詰め席が違えば、それらの留守居役の慣習も異なる。石高が多ければ、その交際ぶりも閑雅であると思えばいい。百川翁の旧主堀田侯は帝鑑の間詰めなので家柄もよく、したがって、留守居役も上品である。 一、留守居役というのは、ひとくちにいえば、外交官、すなわち小形の公使に似た役で、もとより交際官なので、ほかの役々よりはなににつけても異なるところが多い。 一、留守居の交際は、その藩主の詰め席と同じ列の藩のみでするものである〔かならずしもそうとは限らなかった——白石注〕。 一、留守居を拝命したら、諸藩の留守居をめぐって挨拶する規則なので、その当座は毎日江戸市中をまわらねばならない。若党《わかとう》一人、草履取り一人、合羽籠《かつぱかご》一人、馬の口取り一人を従えて行く。また、留守居はどこへも柳行李《やなぎごうり》の細長いのを紺の風呂敷に包み、絹|真田《さなだ》の紐で結び、多くは着替えの浴衣などを入れておく。また草履取りもおなじくどこへも従いゆく。 一、留守居は公用はててのち宴会を開き、交際を厚くする。しかし、この宴会が留守居の本職であるかのごとく見る人も少なくないほどで、その盛んなことは、推してしるべきである。 一、留守居には老輩の先達があって、これを「大先生」と称し、ほとんど師弟か主従かのごとき権威がある。まま大衝突の珍事がないわけではない。 一、留守居どうしの言葉遣いは、彼我は「御手前様」「自分」、藩主のことは「主人」「旦那」「旦那様」、その藩のことは「お家様」、下輩を呼ぶときは「貴様」という。 一、留守居の宴会をひらく料理屋は、どこときまっているわけではないが、芝久保町の売茶亭《ばいさてい》、そのほか平清《ひらせい》・大七《だいしち》・川長《かわちよう》などの料理屋も多かったが、たいていは売茶亭で、とくに料理を食うというときは、八百膳《やおぜん》へ行くこともあった。 一、宴会での服装は、新参はかならず麻上下《あさかみしも》紋付〔正式の礼装〕で、ほかのものは羽織袴〔略装〕である。新参はいちいち先輩の前へ出て盃を頂戴する慣例なので、芸者が気の毒に思って酌の真似をして、助け舟をだすこともある。新参にはすこぶる芸者の同情があつまった。 一、席上の談話は、公用を語ることがほとんどない。まずは芝居・相撲などの話で、当時は役人に学者も少なかったので、もちろん学問の話などはなかった。 一、遊廓へもときどきは行った。吉原・品川などへ駕籠で乗りつけ、草履取りはいっしょに駆けて供をした。駕籠は四枚肩《しまいがた》と称して、四人の壮漢がかついでゆく。 一、「先生」が新参にあい対するときは、すこぶる傲慢無礼のことが多い。あるとき、百川翁は、品川のある妓楼より例の先生(小田原藩の留守居松下|甚《(ママ)》左衛門)の書簡で呼びだされ、ただちに駕籠に乗ってかけつけたところ、時間が遅いといって無礼の言を吐いた。翁は奮然として斬って捨てようかと、長剣をさげて立つ。同座のもののとりなしでことなきをえたが、その後、先生はすこぶる百川翁を優待したとかいうことだ。(以上、節略あり) [#ここで字下げ終わり]  学海の日記『学海日録』は、右の回顧談に語られたことが同時進行《リアルタイム》で書き綴られている。このことが、日記の資料的価値をたかめている。だが、ただそれだけにとどまらず、学海が日記にぶちまけるやりばのない憤りは、じゅうぶんに文学的である。学海のひとりよがりではなく、幕末という時代(といっても、かれらが「幕末」と意識していたわけではなかろう)に、心ある有志の共有した熱い思いであったといえよう。時代を憂い、徳川幕府と佐倉藩のために東奔西走しながらその感慨を書きつける、この日記は、すぐれて時代の青春を活写した文学作品であると言いえよう。  維新政府は、慶応四年五月に公務人(のち公議人と改称)制度を新設し、留守居の職務のうち政府筋にかかわる仕事にこの公務人をあたらせた。そして八月には公用人の役職をもうけて、留守居の職掌のうち諸藩間および藩内の問題を担当させることとした。ここに留守居の制度は消滅したのである。  留守居制度の最後にその職についた学海の在任期間は、留守居としての能力を判定するには、あまりにも短かすぎる。留守居という職務は、とくにその経験がものをいう。先の学海の文章にもあるように、留守居役のキャリアの長さが組合での主導権の強さに反映し、とりもなおさず、それが藩の利益にもつながる。幕藩体制がこのまま存続すれば、学海もあるいは、藩費の濫用や道徳的頽廃を嘆くばかりでない、有能な留守居に成長していたかもしれない。そのあかつきには、「剛直の人」学海も、留守居職のなんたるかをもっと冷静に見ることができるようになっているかもしれない。 †幕府内の政争[#「幕府内の政争」はゴシック体]  徳川幕府だけでなく全国の大名諸家にとって未曾有の危機にのぞむことになったこの時期、学海は譜代大名堀田家の江戸留守居役に就任した。このことはすなわち、文人学海の好むと好まざるとにかかわらず、時代の激動に翻弄されるということを意味する。留守居役とは、そういったことから逃れられない、いやむしろ、時代の混乱した状況のなかにみずからすすんで身をおかなければ勤まらない、そういう役職なのである。  ここで、学海をとりまく政局のうごきを概観しておこう。  学海日記の慶応三年(一八六七)一月五日に、孝明天皇崩御のことが書きつけられている。昨年末の二五日に突然おかくれになり、昨夜、喪が発せられた。御齢三六。  孝明天皇の崩御は、今後の政局のなかで、幕府にとって逆風がふくことを意味した。この天皇は、幕府の心づよい味方であったからだ。  もともと、尊皇と佐幕とはけっして相矛盾するものではない。攘夷と開国もおおくは強固なイデオロギーとしてあったわけではなく、情勢次第でどちらへも転んでいた。また、攘夷論者であることは、かならずしも佐幕派であることを否定しない。  考えてみれば、確信的な天皇制反対論者でないかぎり、普通の日本人は尊皇か、でなければ無関心かである。そして、天皇を政治の道具として担ごうとすれば、本心はどうであれ、建前は尊皇であらざるをえない。幕末において、幕府を支持する派もしない派も天皇の権威にすがろうとしたのだから、したがって、いずれも「尊皇」という看板をかかげていたことに変わりはない。「尊皇」か「佐幕」かという二者択一の図式は、すくなくともイデオロギーとしてはなかった、といっていいだろう。  安政年間(一八五四〜六〇)に将軍|継嗣《けいし》問題がおこったとき、家定《いえさだ》の世子候補として一橋家の慶喜《よしのぶ》を担ぎだしたいわゆる一橋派は、雄藩大名では越前松平|慶永《よしなが》・薩摩島津|斉彬《なりあきら》・宇和島伊達|宗城《むねなり》・土佐|山内豊信《やまのうちとよしげ》など、幕府官僚では岩瀬|忠震《ただなり》・永井|尚志《なおむね》・川路|聖謨《としあきら》・井上|清直《きよなお》・堀|利煕《としひろ》らであるが、かれらはいずれも開国論者であった。首席老中の堀田|正睦《まさよし》もどちらかといえば慶喜びいきで、こちらは「蘭癖」とあだなされるほどの西洋かぶれである。慶喜は水戸藩主徳川|斉昭《なりあき》の実子であり、斉昭は典型的な尊皇攘夷論者である。やみくもに攘夷を主張して幕閣の手を焼かせる斉昭の子慶喜を、かれらが将軍世子として推薦するのは、ただ慶喜が英明のほまれ高いという理由だけではなく、慶喜に自分たちと通じあう開明性を見たからだろう。そして、将軍継嗣問題をめぐる朝廷内の意見も、攘夷論者の孝明天皇をはじめとして慶喜支持が大勢をしめていた。つまり、徳川慶喜は、開国派からも攘夷派からも期待されていたのである。  ところが、通商条約調印に許可をあたえたのは、将軍継嗣問題で一橋派に対抗した南紀派頭領の大老井伊|直弼《なおすけ》であった。調印は勅許(天皇の許可)を得てからという当初の方針を無視した決断であった。攘夷派からの抵抗があるのはいうまでもないが、違勅行為であるこの調印は、開国をとなえる先の一橋派大名からも反発をうけた。だが、大老井伊の本心は開国に消極的であったといわれ、その井伊にプレッシャーをかけて調印にまでもちこんだ陰の功労者は、じつは政敵の一橋派官僚、岩瀬や永井・井上らであった。  このあとにおとずれる安政の大獄は、将軍継嗣問題における一橋派制圧である。だから外交問題とはいちおう別なのだが、開国推進の中心人物の多くが一橋派に属していたから、あたかも開国論弾圧の性格ももつこととなる。事実、この後しばらく幕府官僚に外交問題専門の人材が払底する。  井伊暗殺によってその恐怖政治の嵐がおさまり、かつての一橋派も復活するが、すでに家茂《いえもち》が将軍職を継いで慶喜がその後見職に就いてしまっては、政治勢力の結集というわけにはいかない。 †倒幕派のうごきと天皇崩御[#「倒幕派のうごきと天皇崩御」はゴシック体]  孝明天皇は熱心な幕府支持者だった。幕府の手で攘夷を実行せよというのが、天皇の意思である。幕府にとっては迷惑このうえない話だが、天皇の真意は、けっして幕府を困らせることにあったのではない。それが日本の国体だと確信しているからである。幕府に政務を委任する、つまり幕府の存在をはっきりと認め、かつきわめて純粋に信頼しているところからくる攘夷要求であった。倒幕路線をすすむ長州と組んだ尊攘派公卿たちを朝廷から一掃した文久三年(一八六三)八月一八日クーデターも、孝明天皇の強い意思から出たもので、薩摩と会津および幕府の兵力を借りて実現したものだった。一年後の禁門の変で長州兵を追い返したのも、やはり、幕府軍と薩摩と会津の兵であった。この時点で長州は朝敵である。その朝敵を討つために幕府が薩摩や会津などをひきつれておこなった遠征が、長州征伐である。  だから、薩摩と長州との関係をいえば、そこまでの文脈では、両者は敵対していた.薩摩は幕府のつよい味方だったのだから、ここでの薩摩を、反幕府勢力とは呼びえない。  その文脈に変化が生じたのはいつか。複雑な情勢ゆえこれとしめすことはむつかしいが、長州が、四国連合艦隊の下関砲撃事件をきっかけに攘夷主義をすてた。外国人の顔を見るのも嫌《いや》といったレベルの攘夷論は、すでに時代遅れ、というより、実現不可能なことを、大砲の威力によって痛いほど知らされたのである。攘夷をすてた長州は尊皇開国ということになる。そして、第二次長州征伐に批判的だった仇敵の薩摩とのあいだに、慶応二年(一八六六)一月、同盟が結ばれた。このころから、文脈が急速に変化してゆき、討幕の密約までがかわされる。  といっても、この倒幕は、みずからが政権につこうとするのだから、徳川幕府を否定するものではあっても、幕府政治ないしは武家政権までもを否定するものではない。ことが複雑化するのは、岩倉|具視《ともみ》ら天皇親政を実現せんとする一部廷臣たちが、この一派と結びつくからである。  一方、幕府のほうはというと、できないとわかっている攘夷実行を朝廷からせまられて、条約の履行延期(あわよくば条約破棄)を談判するための使節団をヨーロッパに送り出すという、条約調印のときからすれば一歩も二歩も後退の路線をあゆみだす。開国を本音とする薩摩・長州が、天皇の攘夷要求を楯にとって幕府を追いつめようとする。これも、幕府の陥っている矛盾をみすかしているからである。  この矛盾を解消するための幕府なりの論理が、勅許不要論である。すべて幕府が強権をもって専断すればいい。それがそもそも東照神君|家康《いえやす》公以来の徳川幕府の一貫した姿勢だった。勅許を求めるなど、この条約問題がおこるまでなかったことだ。天皇が承知しないというなら、廃位して流してしまえばいい。そんな例は歴史上こと欠かない。小栗忠順《おぐりただまさ》・栗本|鋤雲《じようん》らのような開国派第二世代から、そういった考え方の持ち主が出てきた。ここにはじめて、尊皇に対抗しうるイデオロギー、「佐幕」の思想が生まれる。もっとも、時代はそんな過激な思想を許さなくなっていて、とうてい世論とはなりえないのだが。  このような情勢のなか、長州遠征指揮のため大坂城に滞在していた将軍家茂が、慶応二年七月、病没した。後任は徳川慶喜以外に考えられず、その年一二月、将軍職を襲位した。そんなやさきの、天皇崩御である。  それは唐突で不自然な死であったから、当時から一部に不審視されていた。学海も後年、史談会で旭形亀太郎なるものからきいた話を日記に書きとめて、「近史第一の疑問」「あやしき事」と記している(明治三一年一○月八日)。その真偽はともかくとして、佐幕主義者にして頑固な攘夷論者というこの天皇の死は、それまで複雑に交錯してきた政局を、「尊(勤)皇」対「佐幕」という二項対立にむけていっきに単純化していったといえる。  学海は、この年つまり慶応二年の九月、江戸藩邸勤務を命ぜられ、一○月に国元佐倉から江戸にもどってくる。この江戸詰めにあたって藩当局が学海に期待したのは、留守居役として情報活動に専念することであった。維新前夜の国事多端のおり、徳川恩顧の譜代大名である佐倉藩の江戸留守居という役職は、その特殊な職掌柄、かなり微妙な立場にたたされることが予測されるだろう。 [#見出し]江戸留守居の日々 [#この行10字下げ]留守居外出の図。「お留守居のお役もなかなかお忙しうござりまする」。学海自画作『学海先生一代記』(財団法人学海無窮会専門図書館蔵) †就任以前[#「就任以前」はゴシック体]  学海は、天保四年(一八三三)一一月、江戸八丁堀に、佐倉藩堀田家家臣依田|貞剛《さだかた》の次男として生まれた。兄に十太郎|貞幹《さだもと》(号、柴浦《さいほ》)がおり、家督はこの兄が嗣いだ。大老を勤めた堀田正俊(一六三四〜八四)に仕えて以来の堀田家譜代の家臣である(『談叢』所収「依田家伝」)。堀田家は、正俊の代から安中・古河・山形・陸奥福島・山形・佐倉(延享三年〜明治)と転封をかさねたが、依田氏は、菩提寺が浅草金蔵寺であり、学海が佐倉に赴任していたときの日記(文久三年七月)に「余が家江戸にありてこの地に寺なし」とあるところをみると、学海のすくなくとも数代前からは江戸屋敷勤務であったらしい。  学海、名をはじめ朝宗《ともむね》、字《あざな》を百川《ひやくせん》といったが、のち字をもって本名とした。学海は号である。通称ははじめ七郎といい、慶応四年六月に新政府の公務人に補されたのを機に右衛門二郎と改めた。二○歳で藤森|天山《てんざん》に入門、経典・史書を学び文辞を修めた。同門に川田甕江・森|鴎村《おうそん》・股野藍田《またのらんでん》・三島|中洲《ちゆうしゆう》・岸田|吟香《ぎんこう》などがおり、師の没後も、門下の中心となって、なにくれとその遺族の庇護につとめた。安政四年(一八五七)一月には、天山にしたがって京都に遊び、頼三樹三郎《らいみきさぶろう》らの志士たちと交わっている。  時の佐倉藩主堀田正睦が、ある日、幕臣の川路聖謨と世間話をしていて、談たまたま佐倉藩の文士のことに及んだ。聖謨いわく、 「公の家中の依田なにがしなるものは、すこぶる文名が高いときく。いま、いかなる役職にあるか」  正睦は学海の名を知らなかったので憮然とし、さっそく屋敷に帰って、家老の平野|知秋《ちしゆう》(重久)に尋ねた。学海をよく知る平野は、学海の姓名事歴をくわしく報告した。正睦は三○俵三人扶持を給して中小姓として召し出した。ときに安政五年(一八五八)一二月、学海二六歳であった。  藩主正睦は外国掛老中であり、日米修好通商条約調印の勅許を請うため、この年一月に上京した。だが、正睦の朝廷工作は効を奏せず、結局、勅許を得られずに帰ってきた。正睦帰府直後に井伊直弼が大老に就任、六月一九日、勅許を得ないまま条約は調印された。その四日後に正睦は老中を罷免された。その後、この外交問題に将軍継嗣問題がからんで、井伊直弼の反対派への苛烈をきわめる弾圧がはじまった。いわゆる安政の大獄事件である。師天山も事件に連累して江戸を追放され、下総|行徳《ぎようとく》に隠遁した。  佐倉藩では藩主が正倫《まさとも》に代替わりし、平野知秋の推挙するところあって、学海は、文久三年(一八六三)四月、郡代官に補されて佐倉に赴任し、千葉・埴生《はぶ》二郡を管掌した。この文久三年は、もっとも攘夷熱の猖獗をきわめた年である。学海の日記にこの年の三月から一○月までの分がのこっており、諸外国の条約履行の圧力や京都での尊攘派の動静、下関での外国艦隊砲撃の報などが記されている。世相は、遠く西国からの噂話ではすまない。佐倉周辺にも及んでき、水戸藩もちかいということもあって、尊攘派の浪士らが出没して、なにかと問題をおこすことがあった。学海はそういった世情にそなえて郷兵の制度の設置を藩当局に上申、それが認められて、元治元年(一八六四)より郷兵長を兼任した。 †春の眠りが破られる[#「春の眠りが破られる」はゴシック体]  慶応二年(一八六六)九月二三日、学海は、江戸藩邸への転勤の辞令を受けとった。一○月二二日に江戸に着き、とりあえず渋谷下屋敷の西御殿内に寝起きすることになる。家族や使用人たちはおくれて到着した。いずれ別に役宅があてがわれる、それまでの仮住まいであったから、身重の妻をかかえて、なにかと不自由ではあった。  だが、四年ぶりの正月を江戸でむかえることになる。無窮会図書館所蔵の『学海遺稿』に、この元日に作った詩がある。    余去冬移[#二]家渋谷[#一]、舎宅未[#レ]成、僑[#二]居於故大夫人別業外庁[#一] [#この行6字下げ]〔余、去冬家を渋谷に移す。舎宅未だ成らず。故大夫人別業の外庁に僑居す〕   姑射神僊脱世塵  姑射《こや》の神僊《しんせん》世塵を脱し   珠楼玉殿跡空陳  珠楼の玉殿跡空しく陳《の》ぶ   吾与梅花独無恙  吾梅花とともに独り恙《つつが》なし   再来重賞故宮春  再び来たり重ねて賞す故宮の春 [#この行4字下げ](仙人のように世塵から逃れ、玉のような御殿もむなしく並ぶ。春に咲く梅の花と同様、私も昔とかわらず恙ない。嬉しい、ふたたび江戸の春にめぐりあえて。)  転句と結句に、四年ぶりの江戸の春に胸の踊るのをおさえられずワクワクしている気分が読みとれる。  この正月から二月にかけての日記には、行楽の記事が多い。雪がふったといっては藩邸の裏の広尾の原に雪見にでかけたり、梅が見ごろだといっては亀井戸や目黒に梅を見に行ったり、また佐倉から出てきた母親をつれて上野や麻布光林寺の桜を見物したり、学海は、大江戸の春を満喫している。   年々来賞光林寺  年々来たり賞す光林寺   今歳復看花色新  今歳|復《また》看る花色の新たなるを   花色依然吾老矣  花色は依然として吾は老いたり   不知重訪幾芳春  知らず重ねて訪るは幾芳春ぞ (二月二七日) [#この行4字下げ](かつてよく来て見たこの光林寺桜。今年また、あらたに花の咲くのを見ることができた。花の色は昔と変わらないのに、私はすっかり年老いた。しらずしらずに重ねてきた春なのだ。)  その間、一月二五日に次女|琴柱《ことぢ》が誕生。産婆の到着まえに生まれるという安産で、ひとまずは安堵した。国元勤務時代の残務整理もまいこむが、日記からうかがえるのは、平和な家庭のいたってのんびりした日々の生活である。  だが、そんなのどかな生活も、二月二八日の、家老平野知秋・熊谷左膳連署の召状によって破られる。あす五つ半(午前八時ごろ)に上屋敷まで出頭せよ、という文面であった。翌日、出向く。 [#この行2字下げ]君公、小書院に出でまして、執政列座あり。留守居役たるべきよしの命あり。  小書院(公式行事の行われる部屋)に通され、重役の居並ぶなか、藩主が出御《しゆつぎよ》され、留守居役任命の仰せがあった。辞令交付がおわって家老に呼ばれ、役高二○人扶持を給される趣旨がつたえられた。同役は野村弥五右衛門、学海の祖母方の親戚にあたる。学海日記によれば、明治二一年一二月に七○歳余で亡くなったとあるから、このとき五○代前半、ながく留守居を勤めたベテランである。当分はこの野村に付いて留守居の役職に慣れなければならない。  留守居役には、藩から何人かの部下がつけられる。補佐として小柴新一郎・福田金左衛門、書記役として北田形蔵・兼坂謹治・野口六弥・鈴木久次郎があてがわれた。  学海の勤務は三月一日から始まる。四日には、新しい任務につく心境を、詩に詠んだ。   決志曾抛書獄筆  志を決して曾て獄を書するの筆を抛《なげう》ち   都門風月客心消  都門の風月に客心消さんとす   如何未脱塵凡骨  如何せん未だ塵凡《じんぼん》の骨を脱せず   復倒衣裳事早朝  復び衣裳を倒《さかしま》にして早朝に事《つか》ふ [#この行4字下げ](官吏の道を捨てることを心に決め、風月を友として市中に遊ぼうとした。だが、いかんせん、いまだ俗世と縁が切れず、またまた裃を着して役所勤め。)   行人職重春秋際  行人は職重し春秋の際   辞命相競戦国時  辞命は相競ふ戦国の時   今日拝趨争末節  今日|拝趨《はいすう》して末節を争ひ   欲回頽俗果帰誰  頽俗《たいぞく》を回《めぐら》さんと欲して果して誰にか帰せん [#この行4字下げ](春秋の時代、外交官の責任は重く、戦国の時代、使者の文書ははげしく飛び交った。今日では、貴人の前に出てささいなことにかかずりあい、俗世にまみれる。だが、その責めをだれに帰せんとするか。) †留守居の覚悟[#「留守居の覚悟」はゴシック体]  留守居役がになう責務の重いことは、前述したとおりである。かつて部屋住みだった学海からすれば、大抜擢の人事である。身にあまる光栄であるが、責任が重いぶんそれだけ俗塵にまみれなければならない。文人学海にとって、この新しい仕事がけっして快適なものでないことは目にみえている。  学海は、四年前に郡代官に任命されたときのことを思いだしたにちがいない。このときも藩内で評判になるほどの異例の人事であったが、学海は、日記にこう書きつけた。 [#この行2字下げ]余、久しく読書に頭をうづめて世事にあづからず。豈《あに》おもはんや、かゝる命をかふむらんことを。辞せんとすれば、素《もと》より学びたる道をむなしくせんも無念なるべし。うけんとすれば、世才にうとし。進退こゝに窮《きはま》れり。いかにともすべからず。寧《むし》ろうけて職に死せんと心を定めたりき。(文久三年四月二五日)  自分は読書の人である。今回の挙用は、世事にうとい身にはあまりにも重すぎる。だが、学んできた学問は経世済民の学、今日このことあるための読書ではなかったか。俗世の塵にまみれることも儒者たるものの本分なのかもしれない、と決意して佐倉に赴任したのであった。  今回、学海が江戸藩邸に呼びもどされたのは、最初、藩士の師弟の教育にあたるためというはなしであった。国元勤務の煩わしい事務仕事から解放されて教育現場にもどるという、ようやくその天職につくことに希望を見いだしたやさきである。示された待遇は教職の倍であったが、それに比例して困難な仕事に鞅掌《おうしよう》しなければならないはめになった。先の詩からは、そんな学海の不安と戸惑いがうかがわれる。  日記によれば、学海は、三月六日、赤坂の駒井甲斐守(朝温《ともあつ》)の屋敷にでかけ、主人の甲斐守に拝謁している。駒井は幕臣で、かつて勘定奉行や大目付を歴任し、現在は陸軍奉行並を勤めている、旗本中の実力者である。  学海は、二○歳のころから数年間、駒井邸に寄寓して、その子弟の家庭教師をしていたことがあった。学海の師である藤森天山と駒井氏が友人で、天山が駒井に学海を推薦したらしい。その後も学海と同家との交際はつづいているから、この日の駒井邸訪問は私的な挨拶であったと思われる。甲斐守も心から、学海の出世を喜んだことであろう。  だが、この訪問には、留守居役という公的な職務にかかわる、もう一つの大きな意味がある。  山本博文氏の著書によれば、大名家と幕府とのあいだにたって、幕府内の情報を知らせたり幕府幹部への働きかけを代行したりして、さまざまの便宜をはかってくれるのが幕臣である。大名家は自家のために尽力してくれるツテを、つねに確保しておかねばならない。パイプ役として有力旗本との繋がりをもつことが留守居の、これもまた重大な任務とされる。みずからも幕府幹部である大身の旗本とのコネクションは、大名家にとって心強い味方である。  駒井甲斐守との繋がりは、学海にとってもともと私的なものであった。しかしながら、幕府の枢要にいる人物とプライベートな交際があるということは、それだけで留守居の手柄となろう。今後、学海のために便宜をはかってくれること、はかりしれないものがある.げんに、学海は、駒井家の家臣窪田豊之進をたびたびおとずれる。 †諸藩藩士と交際す[#「諸藩藩士と交際す」はゴシック体]  ところで、日記によれば、留守居役就任以前からすでに、学海は他藩の藩士と足しげく行き来している。もちろん、学海には藤森天山門で親しくなった他藩の友人も多いから、その交際範囲も藩邸以外にわたることは、さして不思議ではない。  だが、詩友との交わりのほかに、それとは毛色のちがった人たち、学海が公務にちかい立場で会っているとおもわれる人たちの名が記される。たとえば、久留米藩の佐々治・武藤里次郎(一月五日)、紀州藩|武内孫介《たけのうちまごすけ》、小泉藩杉木心平、明石藩下田又三郎、米沢藩|上《かみ》与七郎(以上、六日)、尼崎藩の神山衛士《かみやまえいし》(八日)、佐賀藩の光松某・長尾某・吉村某(二○日)、出石《いづし》藩の小出作平、会津藩林三郎(以上、二月七日)、丹南《たんなみ》藩片岡是助(一三日)、熊本藩小橋恒蔵(一四日)、佐賀藩大野又七郎(二○日)、前述の幕臣駒井甲斐守家来の窪田豊之進(二三日)、などの面々である。括弧内の日付を初出として以後、頻繁に訪問したりまた訪問されたりする。ただ、その用件の内容はくわしく書きとめない場合が多く、また、かれらのなかには、学海の旧知でかつての文雅の仲間もいるから、公用か私用かはっきりしないものもいるのであるが。  昨年、学海が江戸に呼びかえされてすぐに、家老らから非公式に下命があった。「諸家に入り交はるべき」こと、すなわち、江戸の諸藩邸に出入りして、それら諸大名家の外交方との人脈を作れ、と。年の明けた一月二日、藩主謁見をすませて家老の平野知秋の役宅に寄ると、神山衛士なる人物に会うよう指示された。平野の語るところによれば、この神山はもと佐倉藩出身であるが、尼崎藩士の家に養子に行った。尼崎藩では「新聞の事」を担当しており、去年の春ごろからわが藩にもやってきて、「新聞」の筋の問題を佐倉藩重臣に進言していた。平野は学海に、この男に会っていっしょに諸藩の「新聞」担当者と交わりをもつよう命令した。そこで、学海は、八日に神山を訪れた。  それよりさき昨年の暮れごろから、学海は、赤坂の紀州藩邸内にあった「新聞会」と称する会合にも出入りしていた。この会は、紀州藩士武内孫介の主宰していた情報機関である。「新聞」という文字は、これ以後の『学海日録』にしばしば出てくることばであるが、もちろん、今日いうところのニュースペーパーではなく、漢語本来の、新しい風聞、つまり情報という意味である。  学海の江戸勤務は、藩学教師というのは表向きであって、情報活動にたずさわることが本来の使命であったのであり、右の他藩藩士との交際も、そのような藩当局の内命によるものであった。そして、二月二九日の学海留守居役就任は、すなわち正式に藩の情報掛に任命するという性格のものであった。それまでは留守居の見習い期間であった。  上屋敷(日《ひ》ヶ窪《くぼ》、現在の港区麻布)の留守居局へは、しばらく渋谷下屋敷の仮住まいから通っていたが、三月一○日、上屋敷の役宅に引っ越した。この日、兄の貞幹から、章服(裃の類か)・腰刀・防火服それぞれ一揃いが贈られてきた。留守居役就任の祝儀で、うち章服は、これから幕府の窓口となる目付への付け届にせよ、とあった。六歳で父を亡くして以来、親代わりになってなにくれとなく心配してくれる兄の、ありがたい配慮である。  この前後から、日記にも幕政・藩政レベルの記事が多くなってくる。一五日に同僚野村の家で留守居会合があって、それに出席したが、この学海の最初の留守居社会への印象があまり良くなかったことは前述した。日記をそのまま引くと、 [#この行2字下げ]此の日、同僚野村氏に諸藩留守居会合あり。名は職事を議すると称し、その実は酒食を以て楽みをとるにすぎず。小市を争ひ小礼をきそひ、太平の余習になれて当世の務めを知らず。笑ふべく悲むべく歎ずべく憎むべし。  学海自身の「御留守居交際」の文章にもあるように、留守居拝命のあとは、諸藩留守居への挨拶まわりが待っている。それが三月二二日から始まったこと、愚痴をこぼしながら学海も諸藩邸をめぐったことは、すでに紹介した。  学海らが加盟していた留守居組合は、江戸城帝鑑の間詰めの大名家(佐倉・小田原・松代・小浜・郡山・大垣・福山・中津・小倉)で組織している組合である。  二七日、「御留守居交際」中で学海がいっていた「大先生」小田原藩留守居の松下良左衛門が佐倉藩邸に野村弥五右衛門をたずねてきた。野村の家で酒がでたので、学海にも来るようにいってきた。こんな私的な席でも、組合内の序列はきびしくて、学海は松下の前にすすんで、あたかも主君に対するような、あたかも神明を拝むかのような最敬礼を強要された。「廿年来屈せざるの膝かれ等が為に屈す。実に嘆ずべし」とは、その日の日記に書きつけた憤懣である。  次の日、その松下から書信で、本日夕刻、売茶亭で留守居の寄合を開くという知らせがあったので、野村といっしょにでかけた。学海にとってはじめての料亭での寄合であった。新参の学海は、末席のうすぐらいところに二時間ばかり座らされていて、新任の披露がすむと、やがて出席のものたちから盃をさされた。その儀式がまたはなはだ大袈裟で、まるで天子か将軍から賜わるかのようで、相手の顔もまともに見るゆとりがなかった。  その翌日は、きのうの集会の礼状を発送しなければならなかった。書状数通をつくったが、それがまた虚飾に過ぎた文面で、学海には堪えがたかった。  この日(二九日)も、午後から留守居の集まりがあった。きょうは芝神明の境内に相撲が興行されるというので、組合のメンバーうちつれての見物であった。終わって車屋という酒楼にあがって酒宴になった。ここでも、献盃のやりとりのばからしさは、先日の売茶亭でのそれと同日であった。翌日に礼状を書かなければならないことも同じである。 †対幕府関係の仕事[#「対幕府関係の仕事」はゴシック体]  学海の諸藩邸めぐりは依然つづき、留守居としての仕事も徐々にこなすようになる。  三月一八日に慶喜将軍宣下の慶祝の意を表するため藩主の江戸城登城があったが、このときの御先詰めは、先輩留守居の野村弥五右衛門であった。学海がはじめてこの御先詰めを勤めたのは、翌四月の一四日である。朝、野村につれられて、藩主登城よりさきに江戸城に着いた。時刻もはやかったので、御坊主衆にたのんで殿中を案内してもらった。  四月二四日には松江藩で松平|不昧《ふまい》公五十年忌が催され、学海は藩主にかわってでかけていった。江戸における大名家どうしの付き合いで、そういったことを取り仕切り、それにかりだされるのも留守居の重要な用務である。同月二九日は七代将軍|家継《いえつぐ》の命日で、藩主献上の供物をもって野村とともに増上寺《ぞうじようじ》に行く。終わって、野村が気をきかして幕府当局の人をさそって接待した。前述のように、留守居は、幕閣とのパイプ役となってくれる旗本との付き合いに気をつかわなければならない。盆暮の付け届はいうまでもなく、時節の機嫌うかがいも欠かさないのが礼儀であり、野村が接待したのはおそらく、かねてから佐倉藩に好意的にあたってくれていた幕臣であろう。もちろん、この飲食の請求書は、佐倉藩の勘定方にまわされる。  留守居の大事な仕事である対幕府関係のことは、四月に入ってからぼちぼち学海にもまわってきた。  四月三日、老中松平周防守(康直)から佐倉藩邸に、家来を一人よこすよう指示があった。そこで、学海が老中役宅に行くことになったが、これが幕閣との最初の職務上の接触である。この日の用件は、新将軍への誓詞《せいし》提出のことであった。昨年一二月に慶喜が京都で将軍職に就いたのだが、幕府では将軍代替りに諸大名から誓詞を徴するのが恒例となっていた。あす差し出すようにと書付けをもって達しがあった。  佐倉藩が幕府から預かっている相模砲台の前を過ぎる外国船の数を報告するため、六日、学海は老中井上河内守(正直)の役宅に伺候した。一五日には、佐倉藩預かりの他藩藩士の死亡を松平周防守に届け出た。  五月二日は勘定奉行溝口伊勢守(勝如)に呼ばれて幕府評定所に出頭した。佐倉の領民から奉行所に盗賊の訴えがあった、その照会であった。一二日にはやはり勘定奉行河津伊豆守(祐邦)から留守居一人をよこすよう命があった。学海が出向くと、用人が出てきて、佐倉藩が先年設けた郷兵の制について質問された。学海は、みずから関係したことでもあるので、口頭でその大略を述べたところ、おって書面にて差し出すよう指示された。学海はさっそく国元に使いをやり、国元からはこの月の二五日に詳しい報告書がとどいた。  一五日、昌平坂聖廟での釈奠《せきてん》(孔子をまつる儀式)のための献上物を藩主名代でとどけた。一六日にも幕府評定所から呼ばれた。  二四日、夜になって急に老中井上河内守から呼び出しがかかった。雨をおかして駆けつけてみると、先の相模砲台の件であった。佐倉藩に課せられていたこの砲台守備の賦役は、すでに三月に解かれることが決まっていたのだが、このたび幕府が受け取るについて、幕府からは韮山《にらやま》代官の江川氏がその任にあたり、さらに勘定所|徒目付《かちめつけ》が同行するということであった。  藩邸に帰ってこの由を報告すると、藩重役のいうには、先年亀ヶ崎の砲台を浦賀奉行に渡したときも目付の監視などなかった、いまさらそんなことを言い出されたのではこちらの対応事務が煩雑になるし、その必要もないであろう。ということで、翌朝はやく、野村弥五右衛門が井上老中のところへかけあいに行った。  六月の六日、佐倉藩から栗田浩蔵なる藩士が幕府軍艦局の医員に採用されたので、学海は栗田をともなって老中の役宅を挨拶にまわり、終わって浜御殿の軍艦局に行った。  翌七日は忙しかった。まず、これも佐倉藩の賦役であった横須賀製鉄所の警護をその地の奉行に引き継ぐ届けをだした。そして、先日の佐倉藩郷兵の制の趣意書を提出するため、河津伊豆守の役宅におもむくと、しばらくとどめられて、いろいろと細かい点について尋ねられた。ついで、勘定奉行の都築駿河守(峯暉)に呼ばれて領民二人の引き渡しがあった。これは、佐倉領民が代官の不正を幕府に直訴したのだが、結局とりあげられなかったためである。勘定奉行の小栗上野介(忠順)からは、あす勘定所に出頭すべき召状が来た。 †印旛沼開発一件[#「印旛沼開発一件」はゴシック体]  その翌日の六月八日の記事に次のようにある。 [#この行2字下げ]下勘定所にいたる。印ば沼のことを催促せらる。  これよりさき五月二一日、学海は小栗上野介に呼ばれて、印旛沼開削干拓事業について諮詢《しじゆん》されている。その回答を求められたのであろう。  栗原東洋氏著『印旛沼開発史』によれば、この印旛沼干拓事業は、はやく、幕府主導で享保年間に始められ、とくに田沼|意次《おきつぐ》・水野|忠邦《ただくに》によって、幕府財政立て直しの一環として大規模な工事がおこなわれた。だが、いずれも中途で挫折し、天保改革の水野失脚後は、再開案の浮上することはあったが、着工されないままになっていた。  ここに慶応三年二月、相馬郡長沖村(現在の茨城県竜ヶ崎市)の百姓取締飯塚喜左衛門というものから、幕府勘定所に、印旛沼開削の請願がだされた。これは、この事業の一つの、印旛沼から江戸湾への水運作りである。この水運は、疏水すなわち灌漑用水確保が主な目的だったのだが、利根川水位を低下させて長沖村周辺の洪水を防止するということも兼ねており、長沖村などではかねてからそれを期待していた。ところが、工事の頓挫によって水害対策に埒があかず、今回の飯塚らの請願となったのであった。これにたいして幕府は、三月、計画書の提出をもとめている。  飯塚らの計画では、工事の費用はすべて自分たちの負担、印旛沼地元民に迷惑のかからないようするというものであったが、なにぶん大がかりな工事のこととて、地元の協力なしには遂行しがたい。そこで勘定奉行小栗上野介をとおして佐倉藩の協力を打診した。五月二一日と六月八日に学海が小栗に呼ばれたのは、そのことである。  地元では総じて、他国のものが勝手にやることにたいする反感もてつだって、この計画には懐疑的であった。幕府が諸藩を動員してやったこれまでの工事でさえ失敗したのに、経済的裏付けもはっきりしない民間の事業、しかも全額負担でやるなど、とても成功するとは思えない。成功しなかったばあいでもいっさい地元に迷惑をかけないというが、そんなことは信用できない。  それに、洪水対策という名目も胡散臭《うさんくさ》い。そもそもこの開削干拓工事が地元の利益を保障するか。むしろ、印旛沼での漁撈生活者の権利をどうしてくれるんだ。沼からとれる藻草などを肥料にしている農家の打撃だって大きい。洪水なんて毎年あるわけでもないし、われわれには関係ないことだ。そんなことのためにわれわれの生活が脅かされるなんて我慢できない。これまでの工事だって、幕府の命令だからやっただけで、われわれはすすんで協力したわけではない  佐倉藩庁は、幕府と領民との板挟みになってなかなか結論がだせず、六月一六日、学海はまた勘定所から呼び出しがかかり、延引していた回答を小栗から迫られた。両三日の期限をつけられたが、学海は、国元への問い合わせに往復六日の猶予がほしいと答えた。その期限の二三日に勘定所に行ったが、日記にはくわしく記していないところをみると、まだ結論をだしていないようである。結局、佐倉藩としては、「村民難儀なるよし」をつたえて、協力しかねる旨を、七月一二日に幕府に申し出た。だが、小栗は納得せず、村役人を呼んで直接談判するといった。  栗原氏の前記著書によれば、勘定所の呼び出しに応じて、七月二一日、印旛沼周辺三五箇村の総代が出府した。初めは開発反対陳情のための出府だったが、小栗の弁舌に籠絡されて協力を約束させられてしまい、こんどは村民説得のために帰村した。しかし、地元の反対は予想外に強く、結局、協力できないことを幕府に申し出ることになったという。  以後、印旛沼開拓のことは幕府時代においては沙汰がなく、明治政府の手で行われることとなる。 †留守居組合の交遊[#「留守居組合の交遊」はゴシック体]  学海は、留守居の日常業務は無難にこなしているようであり、そうしているうちに、おなじ組合のなかの留守居役にも、仕事を別にすれば気のあうものもできてくる。松代藩の北沢冠岳などそのひとりで、学海はかれのことを「文学ありて詩を作れり」(五月三日)、「学問ありて当世の議論をよくす。留守居中の翹楚《ぎようそ》〔多くのなかでとくに優れていること〕なるべし」(五月八日)と評価し、留守居組合を離れて交際を結ぶ。二人だけで飲みに行って、詩を談じ文を論じることもしばしばあった。学海の詩友の坂田|莠《はぐさ》(高鍋藩士)の京都留守居就任の送別会(五月一九日)にも顔をみせている。  小浜藩の成田作右衛門も、学海に「|頗《すこぶ》る気概ありて傍ら文事を好む」(九月一七日)といわせる。一日、これら気のおけない留守居らで墨田川に遊ぶことがあった。 [#この行2字下げ]かねて若州の成田と約することありて、此の日、郡山の吉田、松代の北沢、膳所《ぜぜ》の福田、丹羽の那須、本多の名島等と舟行《しゆうこう》して、例の留守会のことを為《な》さずしてともに心事を論ずべしとて万年屋てふ舟店に至りし所、玉川氏来会して、北沢来らざるよしいはる。少し興の醒めたる心地せしが、已《や》む事を得ず舟を発して二州《にしゆう》橋〔両国橋〕に至りしに、成田氏来りて又会し、終《つひ》に墨水の大七楼に至る。こゝにて少間を得、成田氏、心事を論ず。舟中にして福田と議論あり。やゝ快を覚ゆ。(九月二○日)  右文中の膳所藩福田雄八郎、丹羽(三草《みくさ》藩)の那須金右衛門、本多(播磨山崎藩)の名島四郎の三人は学海とは組合を異にしているが、成田・吉田・北沢をふくめてかれらは、維新政府の時代、留守居制度の消滅後もしたしく交遊している。この日は、留守居組合の形式主義・権威主義から解放されて胸襟をひらかんとして集まった。ところが、肝心の北沢は所用で来られず、かわりにやってきたのは、こともあろうに北沢の同僚玉川|一学《いちがく》である。この玉川、後出するが、学海とはすこぶる馬のあわない人物で、いささか興醒めではあった。それでも、成田も来て日頃の胸のうちを吐露する。福田とはつい議論になったが、その議論も留守居組合でのそれとは違って、じつに快感をおぼえる。  とはいっても、留守居組合の付き合いはあいもかわらずで、依然としてなじまない。日付はさかのぼるが、四月一四日、藩主随伴で江戸城先詰めより帰って夕方から、同席の留守居が集まって酒宴があった。場所は芝浜で、海上の風景はすばらしく魚も新鮮であったから、学海は、「志同じからん人と来らましかばと思ひしなり」と日記に記す。これが留守居の集まりでなかったらどんなに快適だったろう、と。ただし、翌日、その魚にあたって「腹瀉して堪へがたし」というオチがつく。次の日、組合の連中が藩邸の野村弥五右衛門の家にやってきて飲みだした。学海は前日以来の腹痛をおしてでかけていったが、盃のやりとりの煩雑さは、あいかわらずであった。  四月一九日は留守居組合で小石川関口村の大砲製作所を見学し、これはおおいに勉強になるところがあったが、二六日の寄合は何の新情報も得るところなく、どこの料理がうまいかというたわいもない議論、こんどはどこに遊山にでかけようといった相談に終始した。 †留守居組合で孤立す[#「留守居組合で孤立す」はゴシック体]  学海らの加盟する留守居組合では、月に一、二度のわりで、「懇親会」(俗に「打寄《うちより》」)と称して、留守居の家で宴会をもよおしている。やがて八月に学海宅にもまわってくるのだが、六月二五日、その日に予定されていた松代藩邸の玉川一学宅での打寄にでかける用意をしていると、玉川の同僚である北沢冠岳がやってきて、気になることをいった。 「依田くん、きみは最近、組合の連中からよく思われていない。きみがあまりに正論を吐いて人に折れないところが、かれらにはおもしろくないらしい」  北沢はそういった。学海が詳細を尋ねると、北沢のいうには次のごときことであった。  まず第一は、「野村氏の帰宅を告ぐる時日違へること」。これは、例の相模砲台の返還の件(前述)で、野村弥五右衛門がこの月の九日から一七日まで現地に出張していたが、その帰府の日時を、学海が留守居組合に違って届けたのをいうと思われる。組合と野村とのあいだで交わしていた約束に齟齬の生じたのが不都合だというのである。  二番目は、「松下氏と南楼に会せし時、余、彼が不礼を怒りて不平の色ありし」こと。これもこの月の一二日から一三日にかけてのことをさすかと思われる。一二日の夜、例の「大先生」小田原藩留守居松下良左衛門から急に使いがきて、南品茶亭(品川にあった料亭か)で組合のみんなも待っているからすぐ来るようにいってきた。この夜更けに非常識なとは思うものの、組合の最年長からの呼び出しとあっては断るわけにもいかず、しぶしぶ出掛けていった。そのまま翌日まで品川にとどまって飲み明かした。 [#この行2字下げ]夕辺より品川の松岡に宿して戯飲《ぎいん》す。例の僻事《ひがごと》多くして論ずるに足らず。一度は怒りて議論せばやと思ひしかども、人もとがめ我も悟りてやみにき。夕頃より舟に駕して品川を発し芝浜につき、又神明祠前の酒楼にのむ。  翌日一三日も夕方まで居続けで、夜はまた河岸《かし》をかえて飲んだ。次の日が藩主登城で御先詰めの予定がはいっている学海は、たまったものではない。そこでかわされる話題もじつにくだらない。ついにこらえきれず、学海がなにか不満を口にしたのだろう、その言葉尻をとらえて、「なんだ貴公、文句でもあるのか」と口論になりそうになった様子がうかがわれる。学海はその喧嘩を買ってもいいとは思ったが、「人もとがめ我も悟」ってなんとかその場は収まった。が、それが尾をひいて、組合の古株たちから、依田のやつ新米のくせに生意気な、と思われるようになったようである。学海の回顧談「御留守居交際」の最後に記されている事件(前述)は、このときのことであろう。  なお、江戸藩邸ではどの藩も、藩士が江戸市中で問題をおこすのをきらって、外出や外泊に関しては、その規制が意外ときびしく、だいたいの日常生活は、藩邸内でことたりるようになっていた。しかし、留守居役は、外出じたいが任務のようなものであるからもちろん例外で、外泊についてもかなり自由だったことが右のことからもわかる。  学海が嫌われることになった原因の三番目は、「玉川氏に至りし日、面謁を請はずして去りしこと」だという。これはおそらく五月三日のことかと考えられる。その日、学海は小田原・中津・郡山・松代・大垣の諸藩邸に行っている。そして、小田原藩邸では郡権之助《こおりごんのすけ》と、松代藩邸では北沢冠岳の家に寄って酒を飲んだ。この郡権之助にも「恭謹にしてよく人情に通ずる人」と学海は好感をもっている(後述)。つまり、学海は小田原藩ではあの大先生松下を避けて気心のしれた郡のところに寄り、松代藩では玉川一学を避けて、これも気安い北沢のところに寄った。それがどうやら玉川の気に入らなかったらしく、玉川の同僚北沢が知らせてくれたのである。  四番目は、「劇場に同遊せしとき、人にゆづらずして劇談をほしきまゝにせしこと」であった。得意になって演劇論でもぶったのであろう。 [#この行2字下げ]皆瑣細のことにして、曲直を較《くら》ぶる足らざるもの也。 と学海は、うんざりして日記に記す。だが、北沢がわざわざ知らせに来たのは、学海が顔をだすのはまずいと考えたからだろう。とくにきょうのホストが玉川であることもある。剣呑な状態にあることは確かで、納得しかねるけれども、学海は北沢の忠告にしたがって、きょうのところは野村弥五右衛門に代わって行ってもらった。  新任の学海と留守居組合とのあいだに生じてしまったこのきまずい関係は、大きくならないうちに解消しておかなければならない。いかに取るに足りないことが原因とはいえ、組合内での孤立は、留守居の職掌柄、致命傷である。  翌二六日、日記によれば、学海は小浜・松代・大垣の各藩邸に出向いている。小浜藩に行ったのは、野村の出張中の事務諸般を小浜の留守居(成田作右衛門・三井二郎左衛門)に依頼していた(一二日)からである。三井のところで酒をだされたというから、ひとまずここでの誤解は解けた。だが、大垣藩の鳥居伝は病気を理由に出てこなかった。そして松代藩では、まず玉川一学をたずねて謝罪した。 [#この行2字下げ]あゝ、かゝることをだに心のまゝにすること能《あた》はず。君に仕ふるの道ながら、仕への道ほどつらきものあらじと、歎息に堪へず。  ままならぬ宮仕えの身をかこちながら、北沢の家に寄った。昨日の礼を言うためであろう。北沢は酒肴をだして、学海を慰めた。  その玉川が、二九日に学海の家にやってきたので、酒をだした。それまで、組合の他藩留守居が佐倉藩邸をたずねてきたときは、野村弥五右衛門の家で接待があったが、この日から学海のほうでも小宴をもよおすようになっている。まずは、組合との関係もまるく収まったらしい。 †留守居の醜態ここに窮まる[#「留守居の醜態ここに窮まる」はゴシック体]  しばらくは波風のたつことのない留守居の日常にもどり、例の「打寄」が学海の番にまわってきた。日程は八月七日、場所は学海宅。  打寄のまえに、「来臨を願ふよし」を組合のメンバーの家にいちいち言って歩かなければならない。いつのころからか慣習化されたセレモニー、学海からすれば、これも虚礼以外のなにものでもない。四日、そのために諸家をまわって、北沢冠岳のところで飲んでいたが、すこし気分が悪くなったので帰宅した。晩すぎから腹痛、嘔吐にみまわれ、一晩苦しんで、明け方なんとかおさまったものの、翌日、翌々日と体調はすぐれず、五日の組合での芝居見物も遠慮した。したがって、七日の打寄の準備も前日になってしまった。  当日、申《さる》の刻(午後四時ごろ)から来客があった。数日間の霍乱《かくらん》で準備が不十分だったので、その日になって食器類が足りず、藩邸の台所方に走ったり、同僚の野村弥五右衛門の家から借りてきたりした。宴会は、「夜四ツ時ばかり」(午後一○時ごろ)ようやく終わったが、「家内の混雑いふばかりなし」。学海も疲れはてて、翌八日の日記の記事は、「しるすべきことなし」とあるのみ。その次の日は空白である。  学海はあれ以来、自重してさしたる問題もおこさなかったが、留守居組合にたいする感情は、依然として好転しなかった。  組合会合のバカ騒ぎの翌日に友人たちとの詩会に出て、「昨日の会に比すれば、天地の相違ありといふべし」といってみたり(八月一六日)、留守居組合のメンバーでも心のゆるせる人との私的な付き合いでは、「例の留守会のことを為《な》さずしてともに心事を論ずべし」といったりする(九月二○日)。  この間、他藩留守居の人事異動のため、組合のメンバーにも変更があった。大垣の鳥居伝が国元に転勤、後任として相羽辰之進という人物が加入した。小倉の勝野兵馬も江戸に出てきて組合のメンバーとなった。ただこの勝野は、去年まで江戸留守居を勤めていて、一時国元に行っていただけで、組合内では古参であった。  九月二六日、小田原藩邸の松下良左衛門の家で打寄があった。この日、やはり組合の古株で小倉藩留守居の二木頼母《にきたのも》が出席した。学海は初対面なので、例の仰々しい盃の献酬《けんしゆう》があった。二木は、外見は色黒で長身の、いかにも偉丈夫であったが、学海の観察するところ、ただ威張りちらすだけで、国を憂うる心のちりほどもない男であった。  新任の大垣藩相羽辰之進ともおなじく盃を交わしたが、翌日、この二人に、初めて献酬したことの謝儀を述べる書簡を送った。これも留守居組合でのセレモニー、世の中めまぐるしく変化している今日、十年一日のごとき留守居の風俗を学海はなげいた。  この二木頼母の家での打寄が翌一○月五日にあったが、その席で、ここに窮まれりとしかいいようのない留守居の醜態が現出した。  伏線は、どうやら二日前の散楽《さるがく》見物の帰りにあった。組合うちつれて飯倉の金剛座に散楽を見に行ったのだが、その帰途、何組かに分かれて行動した。そして、野村弥五右衛門らのグループでちょっとしたいざこざがあったという。野村の語るところによれば、一行が料亭で飲んでいたとき、二木が郡権之助にむかって、その無礼を責めたという。郡は、学海からすれば「恭謹にしてよく人情に通ずる人」である。対して、二木への第一印象はすこぶる悪い。二木ごときが、なにをもって頭にきたのか、理解にくるしむ。 [#この行2字下げ]留局の俗習、何を以てかくの如くなる。此の議を発する人、殺すべし。 と、ひさしぶりに日記に書きつける憤懣はかなり過激である。  そして五日、小倉藩邸の二木頼母宅打寄のドタバタ騒ぎとなる。  宴もたけなわになったころ、松代藩の例の玉川一学が新参の大垣藩留守居相羽辰之進を罵りはじめた。不慣れな新米をちょっとイビってやれとでも思ったのか。そのようなことは、さして珍しいことでもあるまい。ところが、なにを勘違いしたのか、これもまた例の二木が、 「あいや、これは主人〔打寄の主催者〕を嘲るとはけしからん」 といって玉川を慢罵《まんば》して、こんどは二木と玉川との口論になった。二木と同僚の勝野兵馬が、二木の肩をもって中に入ると、玉川は勝野にくってかかり、二木と勝野は共同で玉川を攻めだした。ここにいたって、同席の留守居もいりみだれて喧嘩になり、「二更の頃」(一○時ごろ)ようやく収まった。騒ぎの発端となった玉川・相羽らの愚は論ずるに足らず、二木・勝野もきょうの宴会のホスト役として、その傲慢ぶりは常軌を逸している。 [#この行2字下げ]終日相会、言、道義に及ばず、果てはかゝる忿争《ふんそう》を起す。奴隷といへども若《し》かず。  毎日のように集会をもよおしながら、ただただ飲んだり食ったりするだけのバカ騒ぎ、あまつさえ低次元の諍いをひきおこす。学海の留守居組合への幻滅は、目にみえるようである。 †好もしい交際[#「好もしい交際」はゴシック体]  前にちょっとふれたことであるが、学海の任務は、留守居の寄合に出るだけではなかった。留守居役の仕事が各藩の公式な役職であるとするなら、それとは別に、このころ、私的な情報交換の集まりがいろいろあって、学海はそこにも出入りするよう、藩の上層部から指令をうけている。正月の二日に、家老の平野知秋から、尼崎藩の情報掛神山衛士と面識をえるよう指示されたのも、このことである。  そして、この時期の『学海日録』において資料的に注目すべきは、いろいろあった私的な情報機関の一つ「新聞会」の実態がかなり詳しく知れるということである。日記には慶応三年一月六日にその名が初出する。 [#この行2字下げ]竹の内氏新聞会におもむく。余が江戸邸に移りすみしは去年の十月なり。内命をかうむりて諸家に入り交はるべきとのことなり。これによりて武内氏にも交はることとなれり。武内は名孫介とて、紀藩の人なり。外、片桐家の杉木心平、明石藩の下田又三郎、米沢藩の上与七郎など打ちよりて、処々のめづらしきことなどをかきあつむ。これ新聞会の始なり。発会は十二月廿一日にあり。  主宰者は紀州藩士武内孫介で、場所は赤坂の紀州藩邸内にあった。そして、 [#この行2字下げ]わり子やうの物〔折り箱の弁当箱〕を携へて別に饗応の具をまうけず。質素を貴ぶこといと目出たし。 と学海が記すように、文字どおりの手弁当持参である。大名家の家格や親戚関係によって構成される留守居組合とちがって、そういった垣根をとりはらった有志の集団、しかも、藩の経費で飲食代をおとす留守居組合のような会合とは大違い。「剛直の人」学海にとっては、たいへん好もしい。  日記にはほかに「周旋会(社)」という名も出てくる。メンバーが新聞会のそれと重なり、料亭でもよおしているところからみて、「新聞会」に集まる人たちの親睦会かと思われる。あるいは周旋会から新聞会がうまれたものであろうか。新聞会発足の慶応二年(一八六六)一二月二一日、その周旋会が深川の松下楼というところで懇親をしている(『学海遺稿』所載詩の引「十二月廿一日、周旋社諸君と深川松下楼に会す」)。 「周旋」の語は、「新聞」とおなじく、当時流行の言葉で、国事に奔走して、政治工作をおこなったり、諸藩間のとりもちをしたり、他藩との応接の仕事をしたりすることをいう。大は外様雄藩が幕府にたいして政治的発言をすることから、小は学海らの活動のように大名家の外交事務にたずさわることまで広くさしていった。  この懇親の会合は、留守居組合とちがって、おそらく参加者の自腹をきるのであろう、かなりささやかな集会である。たとえば、学海宅で留守居組合の例の打寄があった八月、おちこんでいた学海のところにその五日後の一二日、久留米藩の武藤里次郎から、あす赤坂門外で「雄論を為す」ための集会を催すという知らせがあった。翌日の日記、 [#この行2字下げ]薄暮に至りて、約の如く周旋社諸君と赤坂門外に会す。会するもの二十余人。飲膳のまうけ、甚だ簡易にして倹素なるも目出たしと覚ゆ。  また、九月一三日にもあって、 [#この行2字下げ]議論盛んにして大いに愉快を極む。 という。料亭での会合とはいえ、それはどこまでも質素な会で、議論雄論をたたかわす場なのであって、ことさらに「甚だ簡易にして倹素なるも目出たし」と記す学海の胸には、太平の夢をむさぼる留守居組合への憤りがわだかまっているごときである。  学海はまた、留守居のなかでも好もしいと思う連中を、この周旋社に誘ってもいる(慶応三年一一月二一日)。 †武内孫介[#「武内孫介」はゴシック体]  新聞会の主宰者武内孫介(半助)を著録する人名辞典は、私の見るところ、平凡社版『大人名事典』をもって唯一とする。見出しは「武内半助」。記事の典拠は、『明治文化研究』第三年第八冊(昭和二年八月刊)の石井研堂による「新聞輯録の発行者」なる一文と思われる。  研堂の所蔵する新聞資料中に、『新聞輯録』が第一四号附録(明治五年三月発行)より第二六号(同年五月発行)まであった。当時の新聞紙の形式にならって、表紙共紙半紙六枚ずつの整版手摺りで、毎月五回ずつの発行とおもわれ、第一号創刊は、明治四年一二月ころであろうと研堂は推定する。内容は、当時おおくあった翻訳だねにたよらず、世間の出来事や政府への上書建白の類などをニュースとしてまとめている。  発行編輯者について明記はないが、毎号の奥付に、   新聞社本局  東京赤阪 武内氏          同 牛込 成田氏 とあった。この「赤阪武内氏」が、博文館お抱えの人気挿絵画家武内桂舟の父であることを、石井研堂は知った。桂舟と友人であったかれはさっそく、麹町の桂舟宅に行ってインタビューした。左が桂舟の談話である。 [#ここから2字下げ]  予の父武内半助は、もと紀州徳川家の臣下にて、前名を孫助といへり。卑賤の小臣なりしも、人物の堅かりし為め、目付に抜擢せられて御蔵《おくら》奉行となり、精勤十年、御作事奉行に栄進して又十年ばかり勤め、頻りに倹素の道に精進す。幕末、天下の形勢漸く鼎沸するに及びて文武方頭取に挙げられ、文武両道の奨励に尽力せり。  明治維新に近づくに従ひ、各藩ともに、他藩の挙動及び公武間の新聞を探求する必要を生じたるが、父は、諸藩の同志者と相謀り、『新聞会』なるものを起し、毎日各自得る所のニュースを持ち寄りて交換し、藩主の為めに尽したること有り。  紀州徳川家の屋敷は、赤阪紀伊国坂上(後の東宮御所の処)の地なり。父は永らく此の邸内に棲み、予も同所にて生れたり。明治戊辰の変革に際し、父は一旦紀州に引上ぐべき用意を整へたりしが、邸内ガラ明きの体なれば、急に模様替となりて邸内に留れり。  父は、今日の言葉にて言へば、極めてハイカラの人なりし。お雇の外国陸軍武官などに接触すること多かりし為めならん、洋食も早くより食し、斬髪は、余り早過ぎし為めに、閉門を仰せ付かりしこと有りし程、西洋ずきなりしと聞けり。  予は、文久元年生れなれば(新聞発行の時は十二、三歳)、新聞のことは、唯に父の話に聞き伝へしのみならず、うろ覚えの記憶もあり。新聞紙末に赤阪とあるは、前にいふ紀州邸内のことなり。牛込成田氏は、矢来町の酒井邸内の人なりしが、今其の名は忘れたり。この新聞の木版も、後年まで多数拙家に存したりしが、嵩張る物の為めに、先年悉く竈下に焚き尽せり。予は、柳河春三氏の、時々来訪せるを記憶せり。顔は大ジヤンコにして、神経痛にてもありしか、時々両手を妙に動かす癖ある人なりし。而して、父は、明治二十三年五月廿七日、七十四歳にて歿し、紀州邸に近き鮫ヶ橋の正見寺(現今は郊外中野に移転す)に葬れり云々。 [#ここで字下げ終わり]  学海は、明治五年九月二九日、その日記で、孫介が「近頃新聞のことをもて外国人にやとはるゝこととなりぬ」というが、それは、時期的にいって、この『新聞輯録』のことであろう。学海はまた、「新聞のことは、此の人首としてはじめしかど、近来世多くもてはやしたれば、かへりて此の人はすてられぬ。世にかゝること多し」(同日)といって、武内孫介の世に埋もれてしまったことを惜しむ。なお、『新聞輯録』奥付にあるという「牛込成田氏」とは、学海にとってはなつかしい留守居組合での心をゆるした友人、小浜藩士成田作右衛門である。  武内孫介が西洋好きだったことは、学海の日記中にもそれをうかがわせる記事がある。イギリスの外交官アーネスト・サトーに会って議論したことを学海に語ったり(慶応三年二月三○日)、アメリカ初代大統領の伝記『|華盛頓《ワシントン》軍記』(鈴木弥堅・広浜唯一訳、慶応二〜三年刊)を学海に請われて譲ったりしている(同年二月二四日)。 †孫介を修史局に紹介[#「孫介を修史局に紹介」はゴシック体]  学海と孫介は、明治時代になってもたがいの家を訪うこと頻繁であったが、日記に見るかぎりでは、明治五年一二月を最後にそれも絶えている。実際にも行き来がなくなっていたのであろうことは、二年後の七年九月二六日、すでに家を移っているのを知らずに、学海がひさしぶりに赤坂の旧紀州藩邸に孫介をたずねていることをもって分かる。  そして、ある年の一一月四日、孫介は、太政官修史局員で『復古記』編纂にたずさわっていた沢渡広孝《さわたりひろたか》の来訪をうけた。用向きは、御所持の慶応三、四年の史料を修史局で拝借したいという依頼であった。そこで、史料目録を作成して、翌日、沢渡に宛てて送った。この件に関して孫介の長男|扶《たすく》(桂舟の異母兄)がしたためた沢渡宛て書簡が二通のこっており、一通めの手紙に、学海先生にもよろしくつたえてほしき由の追而書《おつてが》きがある。『復古記』検閲の任にあたっていた修史局三等|修撰《しゆうせん》の学海が、沢渡に武内孫介を紹介したのであろう。学海の修史局入局が明治八年八月であるから、これ以後のことである。  孫介の長男扶は、父孫介が幕末維新のさい天下国家のために東奔西走していたことを知っており、父の功績が今日まったく顧みられないのを悲しんでいた。なんとかして父の名を世に出したいと切望していたので、修史局への協力も、孫介本人より息子の扶のほうが積極的であった。扶が史料を整理して清書し、『武内孫助筆記』と題して修史局に提出した(現在、内閣文庫蔵)。  『復古記』は、この『武内孫助筆記』から、慶応三年一一月五日条に紀州藩邸会議に関する文書、慶応四年一月一九日条に開成所会議に関する記録を引用した。該書はのち、『維新史料綱要』『徳川慶喜公伝』にも使われている。  修史局と縁のできたのが契機になったのであろうか、扶は学海に宛てて、父がかつて上野の彰義隊鎮撫のために尽力した事情の一文を寄せた。それに添えた書簡(五月一六日付け)に、「世上に於て知る人これ無きも遺憾に仕り候」といい、「願はくは、歴史類御編集の中へ御加へ御座下され候はゞ、本懐の至りに存じ奉り候」という。  学海が孫介に再会したのは、明治一一年七月八日、その扶が焼身自殺をはかったという知らせをうけて、弔問に行ったときであった。  孫介の語るところによれば、扶は常日頃、父母を養う才覚に乏しいことを苦にやんでおり、くわえて、昨年春以来の病の治癒がはかりがたく、口をひらけば、死にたいと言っていたという。学海は扶のために祭文一篇をつづって霊前にささげた。  このとき、孫介は歳六二。はためにも零落のさまが感じられた。学海は、明治一二年から修史館(修史局の改称)で始まった『風俗志』編纂のために、局長の川田甕江に推薦して孫介を雇員とし、東京の風俗についての仕事を手伝わせている。  桂舟談にあるように、明治二三年五月二七日、病没。学海の日記には、五月二九日にその死亡記事がのる。 [#この行2字下げ]老友武内孫介、昨廿七日病死せり。年七十余なるべし。孫介その名は半介といへり。もと紀州家の作事奉行をせし人なりき。人となり正直にして詐《いつは》り飾らず。学問はなかりしかど、奇事異聞を好み、文久・慶応年間諸藩士と交際を広くし、新報をかき聚《あつ》めて新報会をその家に開きたりき。余はじめてこの家にゆきしは、元治|甲子《きのえね》〔元年〕のとしにやありけん。年五十余にして堅固の老人なり。  没年と享年から逆算して、孫介の生年は文化一四年(一八一七)ということになり、学海がはじめて会ったという元治元年(一八六四)は、正確には孫介四八歳。学海はこの年三二歳で、前年の文久三年から国元勤務であった。この前後、学海は日記を記さなかったか、あるいは散佚したか、いずれにしても二人の出会いの場を徴する記録はいまのところ、ない。おそらく、学海が公用かなにかで江戸に出たとき、二人は対面したものと思われる。  なお、紀州藩の資料に孫介の名が最初に見えるのは、『南紀徳川史』巻七三所収「紀州藩御手帳御家中姓名録(安政文久間)」で、「芝御屋敷奉行持格御作事奉行助」という肩書きが付される。 †武内孫介の新聞会[#「武内孫介の新聞会」はゴシック体]  石井研堂によって顕彰された、明治の新聞人としての孫介の業績も、今日、顧みられることがない。いずれ正当に位置づけされる日が待たれるが、ここでは、息桂舟がわずかしか語らなかった、維新前の「新聞会」と孫介の事蹟について述べる。  これまでの幕末維新史において、この新聞会のこと、武内孫介なる人物について語られることは、おそらくなかったであろう。徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、大政奉還後の在江戸諸藩重役会議開催(後述)を取り仕切った人物として、孫介は名前のみ出てくる。蘇峰のよりどころは『復古記』巻三だが、これもただ「竹内孫助謀主ト為《な》ルト云」とあるだけで、その素姓には及ばず、蘇峰以上に知ることのできるものではない。まさに、維新の歴史から忘れられている。  武内孫介が国事にかかわったことの確認できるもっとも早いものは、慶応二年(一八六六)八月付け、第二次長州征伐の儀についての建白書である。『新聞薈叢《しんぶんかいそう》』に、その全文がのこされている。孫介の意見は、いつまでも膠着状態がつづけば、旗本・諸藩兵の士気にもかかわるから、すみやかに決着をつけるべきである、そのためにはアメリカ・イギリス・フランス三国の協力を得て長州を攻めるという策である。  幕末における学海と武内孫介との交遊は、学海の江戸屋敷勤務によって、急速にその頻度を高めてゆく。後年、学海は孫介を「正直にして詐り飾らず」と評しているが、そんな孫介の人となりが、剛直を自称する学海と合ったともいいうる。そして、その交際は個人的なレベルを越え、藩首脳から「諸家に入り交はるべき」という指令をうけて、他藩邸の藩士と交わるべき職務上の付き合いと重なるのであった。武内孫介主宰の「新聞会」への出入りも、じつに留守居役依田学海の情報活動の重要な一環だった。  新聞会こそが学海と孫介とを結びつけ、学海の佐倉藩留守居役としての活動源となった。そして、その忘れられた憂国の士の、激動の幕末維新の行動をもっとも詳細につたえているのが、同志としてともに江戸の町を奔走した学海の日記である。 「新聞会」の発足は、慶応二年一二月二一日。年があけた三年一月六日にその年最初の会合がひらかれており、この日が、おそらく本格的な始動であろう。発足当初は「僅かばかりの人」しか集まらなかったこの会も一年後には「かくまでの大集ならんとはいかで知るべき」(一一月二一日)といわせるまでになった。場所は赤坂の紀州藩邸内武内孫介の自宅をつかい、『学海日録』によって判明する集会日は、表のとおりである(学海が都合で欠席したものも含む)。』 〔表1〕(巻末参照)  毎月上・中・下旬と、ほぼ定期的に開催している。三月下旬と四月上・下旬の会のことが日記にはないのは、学海が二月末に留守居役に就任し、挨拶まわりなどで忙しかったり、留守居組合の会合と重なったりしたため「新聞会」には出られず、日記に記さなかったものと思われる。また、新聞会の名が出てこない一○月下旬から一一月中旬は、ちょうど大政奉還の報が江戸にとどいて、諸藩邸が混乱していた。定期的な会合を開かなくとも、連日出入りしていた時期である。  慶応四年(一八六六)一月一二日を最後に、学海の日記から「新聞会」の名がしばらく消える。これは、鳥羽伏見の戦、幕府軍敗走、慶喜の東帰・恭順といったことがたてつづけにあって、かれら諸藩の情報関係者が江戸市中をかけまわっており、これも定期的な会合どころではなかったからであろう。そして、学海は、この年二月に上京して一○月まで京都に滞在するため、江戸でのこの種の集会には関知していない。京から帰って一一月二七日に「武内氏の会」、翌明治二年一月七日に「武内氏の文会」にそれぞれでかけているが、それ以後、学海の日記に「新聞会」の記事はあらわれない。  学海と孫介とは、最初のうちは、学海が定例の新聞会にでかけていくだけの付き合いであったようだが、慶応三年三月一二日に初めて孫介のほうから佐倉藩邸に学海をたずね、それからは、定例の会以外にも孫介の家に行くことが多くなった。孫介からも直接あるいは私信でもって情報をよこすところがあった。とくに大政奉還の知らせが江戸にとどいて以後は、紀州藩がリーダーとなって幕勢回復のための諸藩会議がおこなわれるが、帝鑑の間詰め大名家の中心が佐倉藩であるところから、学海と孫介は、時局を論じ、諸藩間をとりもつために奔走する。 [#見出し]大政奉還と江戸諸藩邸 [#この行10字下げ]久留米藩有馬家上屋敷(F・ペアト撮影、文久3年〜元治元年頃)。赤羽橋付近から麻布方面を望む。佐倉藩上屋敷があった日ヶ窪はこの道の先(小沢健志氏蔵写真、部分) †兵庫開港と攘夷[#「兵庫開港と攘夷」はゴシック体]  そうこうしているうちにも、現在政局の焦点である京都や西国の情勢は刻一刻と変化していた。  慶応三年(一八六七)四月一八日、神山衛士が来て、兵庫開港問題の情報をもたらした。 [#この行2字下げ]兵庫開港のことにつきて京師大いに沸騰するよしきこゆ。先帝かくれさせ給ひしより、関西の諸藩ますます志をふるひて朝臣と密に交通し、開港のことは先朝の御志にあらずとて、かの議〔開港〕を拒み、朝幕をたがはしめて己の私をとげんと謀るものなるべし。衛士と此の事を語りて憤怨にたへず。  安政五箇国条約(修好通商条約)で定められていた兵庫開港は、その実施が神奈川や長崎より遅れていた。だが、文久二年(一八六二)ロンドン覚書で取り決められた開港期日の慶応三年一二月七日(西暦一八六八年一月一日)が迫っていたため、列国公使は幕府に条約を履行するつもりがあるのかどうか詰め寄っていた。将軍慶喜はかれらに、条約履行・兵庫開港の決意を表明し、越前・薩摩ら有力諸侯に開港問題の意見を諮問するとともに、朝廷にたいしてその勅許を奏請した。四月の時点では、二度にわたる奏請に不許可の沙汰が下りていた。諸侯の意見は大勢では開港やむなしであったが、それが長州処分などの政争とからんできて、幕府のおもうようにまとまらなかった。とくに、長州と組んで倒幕路線をすすんでいた薩摩が、ことごとく邪魔をする。  右日記中の「関西の諸藩」は、薩摩やそれに同調する勢力のことで、かれらは、先帝(孝明天皇)の崩御をいいことに、ますます図にのって公家間に出入りして、開港は先帝の志にあらずなどと言い募って妨害しようとする。この段階において長州は攘夷から開国へと藩論を現実路線に転換していた。薩摩はもともと開国主義であるし、とくに開国をつよく求めるイギリスのパークスがうしろにひかえている。そのかれらが朝廷にむかって、攘夷論者であった孝明天皇の遺志を口実に開港反対を言いだすのは、幕府を窮地におとしいれ、朝廷との信頼関係を壊そうとする魂胆以外に考えられない。  四月二九日、学海は、出石藩の小出作平から、今月一六日に朝廷で大議論があって、武家|伝奏野宮定功《てんそうののみやさだいさ》、議奏《ぎそう》広橋|胤保《たねやす》・六条|有容《ありおさ》・久世|通煕《みちさと》が免職になったという情報を得た。伝奏は幕府との窓口となり、議奏は朝廷会議をとりしきる役職である。この四人はいずれも宮廷内幕府寄りの公卿であった。五月一一日の新聞会で、学海はその事情を知った。ことは、イギリス公使パークスの一行が、大坂から伏見を経て越前敦賀までの旅行を、二条城の幕府に申請したことに端を発する。幕府は、オランダ人の伏見街道通行の先例あるをもってしぶしぶ許可した。このことが尊攘派浪人のつきあげるところとなって、朝廷で先の議奏・伝奏が責任をとらされたのである。  これは薩摩藩とパークスとの共謀であった(松浦玲氏『徳川慶喜』)。というのは、西郷隆盛・大久保利通ら反幕・倒幕派は、薩摩の島津久光、土佐の山内豊信(容堂)、宇和島の伊達宗城、越前の松平慶永(春嶽)による四侯会議を計画し、その会議で兵庫開港問題と長州処分問題とをセットにして一挙に解決してしまおうとした。いずれも目下焦眉の問題であって、それらを四侯会議で決着して朝廷による決定とすることによって政局のイニシアティブをとり、徳川幕府の権威と権力を失墜させ、ひいては政権奪取にまでもってゆく。そのため、親幕府派の議奏・伝奏をあらかじめ排除しておいて、四侯会議の意思を朝廷に通しやすくする、その布石にしようとしたのである。  しかし、兵庫開港問題に関して、京都の将軍慶喜は頑張った。  五月初めにはじまった四侯会議は、西郷・大久保らの思惑どおりには運ばない。山内豊信・伊達宗城・松平慶永らは、基本的には徳川幕府否定論者ではない。島津久光にしても、うしろで大久保・西郷らに叱咤されなければ三人にまるめこまれそうになる始末である。結局、この四藩実力者会議は、四侯の歩調のそろわないところにつけこんだ慶喜の弁舌によって潰されてしまう。そして五月二三日、慶喜は、老中や所司代をしたがえて宮中にのりこみ、朝議開催を要求して、兵庫開港の勅許と長州への寛大な処分をもとめた。四侯会議解散で自信を得ていた慶喜は、翌二四日までつづいた朝議を終始強引にリードし、その日午後八時ごろ、ついに、長州処分の寛典を条件に、懸案の兵庫開港の勅許を勝ちとったのである。  四侯会議を解散においこみ兵庫開港の勅許を得たことは、慶喜の幕府権力強化策の勝利であった。だが、大久保や西郷らにとっては、これをもって、武力倒幕以外に道のないことが確信的になった。  八月二四日、武内孫介から、将軍慶喜の腹心原市之進が殺害されたと通報があった。あとで江戸城坊主衆のひとりにくわしくきいたところでは、犯人は、鈴木常三郎・同常次郎・依田雄太郎という幕府御家人三人。さる一四日、原の宿舎に押し込み、殺害して首級を奪った。それを老中板倉伊賀守のもとに持参しようと、板倉の役宅の門前まで行ったが、そこで駆けつけてきた原家の家臣と斬りあいになり、うち一人が斬り殺されて首は取り返された。ほかの二人は捕縛されたとも、その場で自殺したともいう。  右の情報は、各種資料を参照するに、犯人の名がすこしく異なるなどあるが、状況をかなり精確につたえている。  原市之進は水戸藩出身。慶喜が一橋家に入ると同家用人となり、慶喜の将軍襲位にも奔走し、幕府目付に抜擢された。慶喜|股肱《ここう》の臣であり、兵庫開港勅許獲得についても、この原の公卿への入説がおおいに効を奏したといわれている。それだけに、倒幕派からはげしく敵視されたのはいうまでもないが、水戸藩尊攘派からは奸物視されるところがあったし、幕府内部でもその過激さを危ぶむものが多かった。げんに暗殺者たちは幕臣であり、言い分は、兵庫開港勅許が原の奸謀に出るもので主君慶喜公その人を誤る愚挙である、ということである。幕府有司が黒幕だったとの風説もある。 †幕勢挽回の方策をさぐる[#「幕勢挽回の方策をさぐる」はゴシック体]  また、九月一六、一七日、学海は、先月京都|栂尾《とがのお》で徳川家親藩留守居らの集会が開かれたことをきいた。薩長ら外様の反幕勢力の跋扈により幕府が孤立の危機に瀕する昨今、この情勢を親藩大名家たるもの黙して座視すべきときではないという呼びかけでひらかれた。すべからく力を一にして幕府をたすけ、奸賊のたくらみを挫かずんばあらず。文字どおりの佐幕会議と称すべきものであった。尾張・紀州・会津・桑名をはじめとして五○人以上集まったという。さらに今月に入って譜代藩もあわせて、京都|円山《まるやま》で会合が開かれたという情報も得た。  慶応三年も秋にはいった時点での反幕府派の運動は、まず、武力でもって現政権を打倒しようとする強硬路線があった。長州藩がその最右翼で、薩摩も兵庫開港問題以後それに同調していた。もう一つは、自発的な大政奉還を幕府にすすめ平和的手段で政権を移そういう路線で、土佐藩などがうごきはじめていた。これら反幕・倒幕勢力に対抗するのが幕府権力強化派で、この三つの運動が並行して進展していた。  京都での親藩・譜代留守居の集会は、そういった倒幕派への、幕権強化派の対抗であった。江戸でもそれに呼応して、新聞会でその働きかけをした。九月二一日の新聞会に紀州藩重臣斎藤政右衛門も顔をみせたので、席上、学海は、親藩・譜代の諸藩が相謀って幕勢挽回の策をたてるべきことを進言した。斎藤は、その建言に大いに賛意をあらわし、紀州藩が周旋にあたることを快諾した。武内孫介もいっそう力を尽くすことを約束した。  二四日、学海は、膳所藩の福田雄八郎をたずねて、時事を論じあった。  学海「親藩・譜代の諸藩が同盟して幕権を強化してゆかねばならない」  福田「然り。このこと、かならず成し遂げねばならぬ」  このように気炎をあげたが、翌日、武内孫介が学海のところにやって来て、紀州藩邸の空気をつたえた。 「わが藩主の名で周旋方《しゆうせんかた》を出し率先して諸藩に同盟の入説をするという先日の件について、わが江戸藩邸では不服のものが多い。わが紀州藩の意見は、にわかにはまとまらない」 といって嘆いた。しかし、孫介らの説得がきいたものか、翌月一○月一日早朝に孫介がもたらした知らせは、学海を心づよい思いにさせた。 「先達ての親藩・譜代同盟のことを、家老の水野|大炊頭《おおいのかみ》様に建議したところ、水野殿はその意見を大いによろこばれ、近日中にしかるべき人物を、諸藩への説諭役として選ぼうと約束してくれた。依田くんも、よろしく協力してほしい」  そして、同盟の条文案を示して、 「意見があれば、遠慮なく言ってほしい」 といって帰っていった。翌日の新聞会で、水野の家来飯田|鞭児《べんじ》に会った。  一○日の新聞会に行くと、紀州藩用人岡田清右衛門が顔をみせた。この岡田が、先日武内のいっていた、親藩・譜代同盟の諸藩説諭の周旋人であった。岡田は、 「藩主の命により、他藩の外交官と接触することになった。ついては、有志の人たちへの紹介の労をお願いしたい」 と学海に依頼した。 [#この行2字下げ]紀藩は幕朝の御懿親にして、近頃西征の総督となり給ひ、老臣水野氏は屡々忠勇の誉をあらはしたること、天下の知る所なり。この君盟主となり給ひなば、親藩・内藩必ず服従して一致の力を極め、幕朝の御勢、古へにかへらせ給ふこと、是を企てまつべし。  紀州藩は幕府親藩の筆頭であり、さきの長州征伐でも幕府軍の総督をつとめた。紀州藩主が同盟の盟主になれば、親藩・譜代諸藩もかならず一致団結して、幕府の権勢は旧に復するだろう、と学海は期待する。 †大政奉還の報がとどく[#「大政奉還の報がとどく」はゴシック体]  一○月二○日、この日は留守居仲間が春木|南溟《なんめい》(画家)の家に会合して飲む約束があった。が、その朝はやく、学海のところに急報がまいこんだ。 [#この行2字下げ]京師大変起りて、郡山・松代等の諸藩尽く上洛すといふ。何故なるをしらず。  京都情勢に重大な変化があり、佐倉藩とは同席の郡山・松代が上京するという。学海は、南溟宅の集まりで、松代の留守居北沢冠岳から詳しい話をきいた。 「さる一三日、将軍が二条城に在京諸侯重臣を集めて、朝廷に政権を返上し奉らんとの意思あることを告げ、その場で意見を徴したということだ」  日本史でいうところの「大政奉還上表」である。学海の驚きは大きく、「席を去らんとせしかど、意の如くならず」という始末であった。会がひけてから、朝廷がすでに大政奉還の願いに勅許をあたえていることの確報も得た。学海は、とるものもとりあえず、藩邸に戻った。  翌二一日、朝、江戸城から、至急藩主登営の命令が来た。御先詰めの学海は、藩主より先に江戸城におもむく。はたして、きのうきいたとおりであった。城中は混雑をきわめ、容易ならざる大変であることが知れた。この日、江戸の幕府は、在府の諸侯あるいは重役を集めて、大政奉還勅許の正式発表をおこなった。学海は日記に次のように書きつける。 [#この行2字下げ]東照宮の開基ありしこの天下を、兵を以て奪はれたらんは力なし。故なくして太阿の柄を倒《さかしま》にして人に授け給ふこと〔太阿は古代の宝剣。『漢書』梅福伝「倒に泰阿を持ち楚に其の柄を授く」をふまえる〕、実に情理の解すべからざるものに似たり。しかれ、先朝の御時にあらば、猶、政を天子に復し給ふともいひつべし。今の朝廷はいかなる朝廷ぞや。逆藩等、陰に公卿を誘して非法の政を為す。これ君にかへすにあらず。賊にあたふるなり。惜しむべし惜しむべし。  家康公の開いたこの幕府も、武力でもって奪われたというならばいたしかたなかろう。しかし、今回の仕儀は平和裡とは名ばかり。実際は、こちらに刃をむけた剣を、どうぞとばかりに敵の手に渡すようなものだ。とても理解におよばない。先の帝(孝明天皇)の御時であるなら、まだしも天子に政権を還《かえ》したてまつると言いえよう。だが、いまの朝廷は、逆藩ら(薩長)が陰で公卿を籠絡して、非法の政治をおこなおうとしているだけではないか。これは政権を天子に還すのではない。賊に持っていってくださいと与えるようなものだ。学海の薩長両藩にたいする憤りははげしい。  ところで、余談になるが、二○日早朝の急報はどこから来たのであろうか。学海ははっきりと記していない。個人の日記だから、故意に隠したわけではないし、べつにそうしなければならないという性質のものでもない。たまたま書かなかっただけのことだが、学海の情報源について、ここですこしふれてみたい。  松代藩らの上京について「何故なるをしらず」といい、あとで北沢からことの詳細をきいたというのだから、学海が最初に耳にした情報は、さして内容のあるものではなかったことが知れる。  すでに郡山藩や松代藩は、二○日朝の時点で、この緊急事態に対応している。学海によれば、一八日に松代藩の北沢らが目黒に遊びに行こうと誘いにきた(学海は風邪ぎみで行かなかったが)。だから、これらの藩が情報を得たのは、それ以後、つまり一八日の夜か、それとも一九日かであったことになる。ところが、佐倉藩では一八日にそのような気配はまったくうかがえないし、翌一九日の藩邸は、学海の日記に「晴」とあるだけで、なにごともなかった日であった。  ちなみに、江戸城では、一七日、留守をまもる老中以下の幕閣がこの情報を得て鳩首協議している。  松代藩などは京都からの直接の情報であっただろうにたいして、佐倉のそれは、状況および日記の文意からみて、おそらく間接的なものであろう。そう考えてここまでの学海日記を読みかえすと、これまで学海が得ていた京都情報のほとんどが、佐倉藩独自の情報組織からのものではなく、留守居仲間や新聞会などの集会でひとづてにきくものであったという事実に気づく。これらから分かるように、佐倉藩の京都に関する情報網は、他藩にくらべて極端に劣っている。  佐倉藩は京都に藩邸をおいていない。もっとも、これは佐倉に限ったことではなく、京都屋敷をもたないのは、とくに関東以北の諸藩ではめずらしくない。だが、政局の中心が京都にあったこのころ、臨時の藩邸を設置したり、藩士を派遣して情勢をさぐらせたりする藩は多かった。佐倉藩でも、永田太十郎なる人物が京都に詰めているのだが、学海日記にみるかぎりでは、情報機関としてあまり機能していない。  学海は、佐倉藩がこれに関して他藩に一歩も二歩も遅れをとっていることを指摘する。 [#この行2字下げ]近来、諸藩、知邸吏《ちていり》〔藩邸役人〕を京師におかざるものなし。帝鑑局の諸侯に至りては、秩十万石に充つるもの皆然り。本藩及び小田原藩のみ、古よりおくことをきかず。(慶応三年九月一七日)  この情報機能の遅れが、やがて佐倉藩に災厄をもたらすことになるのだが、それは後述するであろう。 †藩主上京の朝命きたる[#「藩主上京の朝命きたる」はゴシック体]  一○月二二日早朝、学海は紀州藩邸の武内孫介をたずねた。親藩・譜代同盟の周旋にあたっていた同藩用人の岡田清右衛門は、尾張・水戸へ同盟を発議するために馬を用意して出ていった。学海は、武内孫介・榊原耿之介の両紀州藩士とつれだって、同藩重役斎藤政右衛門に面会し、幕府大勢の挽回の方策を建議した。いずれにせよ、親藩・譜代の有志を集めて大会議を開かねばならないということになった。  二三日朝、幕府目付から藩主登城の命があった。御先詰めは野村がつとめた。在府の帝鑑・雁《かり》・菊《きく》の間《ま》詰め諸侯が集められ、大政奉還の趣旨を体して軽挙妄動を慎むようにとの諭告であったが、老中が佐倉藩主の詰める帝鑑の間に出座して別に達しがあった。 「このたびの徳川家御一大事につき、譜代大名においては力をあわせ連合してことに当ってほしい。また、御政道に関して建議すべきことあらば、なにごとにても登営あって言上あるべし」  譜代大名とは、いってみれば、幕府開設以前から今日までつづく徳川家家臣の謂《いい》である。家臣団による政治運営が原則という幕藩体制の認識からすれば、あの関ヶ原合戦・大坂の役の再来とでもいうべき国内情勢にのぞんで、譜代諸藩は一致して徳川将軍家のもとに結集しなければならない。とくに、溜《たまり》の間《ま》詰め大名(将軍に直接意見を言上する資格がある)に次ぐ帝鑑の間詰め大名は、譜代大名の中核的存在といっていい。この日の帝鑑の間での幕閣の発言には、つまりそういう含みがあったのである。  松代藩では留守居の北沢冠岳が京都出張を命ぜられたというので、二四日朝、学海は松代藩邸に馬をとばして、しばしの別れの挨拶をした。ついで備中松山藩邸に親友の川田甕江をたずねた。甕江の主君は、現在将軍のもとで懸命に奮闘している筆頭老中の板倉伊賀守|勝静《かつきよ》である。きのう京都から帰ってきたという吉田謙蔵なる人物が甕江の家にいて、かの地の詳しい情報をきいた。  正午前、膳所藩邸の福田雄八郎のところに行くと、すでに島原藩内山四郎兵衛と三草藩那須金右衛門が来ていた。ともに帝鑑の間詰め大名家の留守居である。昨日の老中達しについて相談した結果、帝鑑の間詰めの留守居の有志をかたらって紀州藩に行くことにした。夜、有志九人が赤坂の紀州藩邸に集まり、同藩岡田清右衛門・榊原耿之介・武内孫介らと幕府勢力の挽回策を協議した。ここに、紀州藩が中心となっての、江戸における佐幕世論形成が具体化しだしたのである。翌日(二五日)、学海は、島原藩の内山四郎兵衛の家で開かれた会合に出た。出席するもの一○余人、帝鑑の間詰め一○万石以下の大名家の留守居役たちであった。  この日(二五日)、京都詰めの佐倉藩士永田太十郎からの飛脚がとどいた。佐倉藩主堀田正倫に至急の上京を命ずる武家伝奏よりの仰書《おおせがき》が二通、同封されていた。  朝廷からのこの上京命令は、今月一五日の大政奉還聴許と同時に、一○万石以上の大名に出されたものであった。それ以下の大名にも二一日に発せられている。  大政奉還が認められたからといって、その日から天皇政権が誕生したわけではない。慶喜はまだ征夷大将軍であるし、その他の官位も失ってはいない。慶喜に下された大政奉還聴許の沙汰書にも、「建白の趣もっともにおぼしめされ、お聴きめされたにつき、なお天下とともに同心尽力して、皇国を維持し宸襟《しんきん》〔天皇の御心〕を安んじたてまつれ」とあった。これでは解釈しだいで、なんの事態の変化にもならない。げんに、その後の朝廷とのかけひきにおいて、諸侯が上京参集するまでは、外交事務および緊急を要するものの取扱や京都警衛などの政務について、幕府がその取締をおおむね担当する、ということになった。はやいはなしが、しばらくは将軍の職務はほぼ旧に仍《よ》るという、ほとんど土俵中央に戻ったかっこうになってしまったのである。  いまの朝廷のほうにも、政権を還されたからといって、ではあしたから幕府にかわってそれを担当する準備や能力があったかというと、じつは、そんなものは、全くといっていいほど、なかった。だから、大政奉還|上表《じようひよう》への最初の回答は、国家の大事や外交問題は衆議で決し、その他のことは諸大名が京都に会同したうえで議定すべし、ということであった。諸侯上洛の命令も、つまりはそのためのものである。  二六日、学海は、午前中紀州邸にでかけ、午後は小倉藩の勝野兵馬の家で、例の留守居寄合があったのででかけた。だが、この期におよんでも、学海らの留守居組合はあいもかわらずバカ騒ぎをやめない。「国家〔幕府をさす〕の大事を外にしてのみくらふ。悲むべし」。  これらの同席の留守居たちにも、学海と気心を通じあう仲間もできたし、例の新聞会や周旋社に出入りするものもでてきた。ところが、これらの会が家格や旧習から脱した自由な情報交換の集まりであるにもかかわらず、なかには、あいかわらず留守居組合での序列や慣習を、この集会にもちこんでくるものがいる。学海にはどうにも我慢ならず、例の剛直のくせが出て、喧嘩になりそうになったが、「小事を以て大事を誤ることなかれ」という渡辺又十郎の諫めによって、ようやく思いとどまった(一二月三日)。 †他藩の顔色をうかがう[#「他藩の顔色をうかがう」はゴシック体]  京都では次いで一○月二四日に、慶喜が将軍職の辞表を朝廷に申し出た。だが、これにたいしても朝廷からは、諸侯上京のうえおって沙汰する、それまでは旧のごとく心得よ、つまり慰留されるしまつであった。したがって、客観的情勢は、かならずしも幕府に不利というわけではない。諸大名が京都に集まって会議をひらいても、そこで徳川慶喜という稀代の策士が主導権をにぎれば、風向きをかえて建て直し、いやうまくいけば、幕府の体勢をこれまで以上に強化できないものでもない。将軍職辞表提出も、それを見越した行動であったといわれる。  だがしかし、そういった機微は、刻一刻と変化する状況のなかにいてはじめて把握できることで、江戸にいて濃淡真偽とりまぜた情報を受けるものにとっては、京都の形勢を容易に判断できない。江戸の諸藩藩邸では、まさに五里霧中、疑心暗鬼であった。  諸侯上洛の朝命にたいして、佐倉藩では近日中上京ということでまとまり、学海にも藩主随行の内命があった。だが、具体的なはなしにはなかなか進展しなかった。他藩がどう出るかが気になるところで、学海はそれとなく留守居組合などで探りをいれる。  小浜藩(若州藩)が朝廷の召集に応じて、来月一日をもって藩主が上京するということをきいた。学海はさっそく、小浜藩留守居の成田作右衛門のところに行って、このたびの京都大変を議論した。成田は、 「同席〔帝鑑の間詰め〕の諸侯に、幕府のために奸賊を除き、不正を正そうとするものが一人もいない」 と悲憤慷慨する。学海、この成田作右衛門を評していう、「実に一奇士といふべし」と。おそらく成田は、自藩の上京に不満であったのだろう。  二八日朝、出羽|上《かみ》ノ山《やま》藩留守居の仁科大之進が来た。用件は、 「今回の変事につき、われら徳川恩顧の譜代藩たるもの、将軍家への忠節をまっとうし徳川家報恩の建議をおこさねばならない。ついては、その相談のために、わが藩主みずから佐倉藩邸に出向きたいが、ご都合はいかがであろうか」 ということであった。  二九日、学海は、赤坂紀州藩邸にでかけ、武内孫介をたずね、武内といっしょに浄瑠璃坂水野氏(紀州藩付家老)の屋敷の飯田鞭児のところに行った。水野家の重臣二人に面謁し、幕臣蓮池新十郎・同昇三郎・本多敏三郎もともに同席して時事を論じた。朝廷の上京命令に、親藩・譜代諸藩としてどう対処すべきか、その去就に迷う藩が多い。席上、 「闕下《けつか》〔宮中〕に出て哀訴してはどうか」 という説もあり、 「そもそも親藩・譜代は幕府の臣下である。朝廷から直接の命令をうける筋合いはない」 と断固拒否の説も出る。だが、一座の空気はどうしても、「観望の説」、いますこし形勢を見てから、というところに落ちそうになる。この場にいるもの皆それぞれに「慷慨《こうがい》の士」である。そのかれらにしてこうであるから、他はおして知るべきである。  三○日、学海は上ノ山藩邸に行った。一昨日上ノ山藩から申し出のあった件について、本日御来駕くだされたき旨を述べたが、応接にでた上ノ山藩士はつたえた。 「藩主はあいにく病気で伏せっておって、外出できない」  病気はもちろん口実であろう。上ノ山藩の一昨日の意思(藩論)にすこし動揺のあったことがうかがえる。  この日、義弟の藤井喜太郎(のち善言《よしのぶ》)が横浜から帰ってきた。この七月にフランス語を学ぶため、藩庁から一年の休暇をもらって留学していたのだが、藩主上京のお供に決まって、急遽、藩邸に戻ったのである。  さて、その藩主上京のことであるが、翌一一月一日、佐倉藩邸に京都からの飛脚が到着し、諸侯の上京は一一月中をもって期限とすべしという武家伝奏の仰書がとどけられた。これは、大政奉還当日に出した上京命令がじゅうぶん徹底しなかったため、再度、諸藩にむけて発した督促である。  朝廷の命に応じて上京したのは、一○月末までに、薩摩・尾張や京都周辺の小藩のごく少数であった。紀州藩や阿波藩のように、藩主病気をもって上京延期を願い出る藩もでていた。  だが、もっとも多かったのは、態度がはっきりしない藩である。というより、はっきりさせえなかったといったほうがいい。これは薩長の陰謀だ、のこのこ出掛けてなんかいったら、取り返しのつかないことになる。あるいは、二○○年以上もつづいた徳川の臣下という思考回路では、いまの朝廷の命に服することは躊躇される。いや、そこまで考えるのはまだいい。ほとんど大半の大名家は、いま現在、日和見《ひよりみ》の段階である。そもそも、自分たちがなにをするために京都に集められるのかがはっきりしていない。今後、時局がどちらに優位に動くか。そこを見定めないと、うかつには態度を表明できない。もうすこし他藩の出方をうかがってみよう。  佐倉藩は、上京部隊の人選をしているところから、この時点では、まだ召集の命に応じる線であった。  この日(一一月一日)、佐倉藩に入った情報は、あと二つある。一つは、小浜藩留守居の成田作右衛門がやってきて、昨日決定した小浜藩の態度をつたえた。小浜藩は上京の命に応じるということだったが(一○月二六日)、幕朝(幕府)に従服して、王朝(朝廷)の号令を奉ずべきでない、つまり、召集には応じないという方向に変更になった。もっとも、きのう朝廷にむけて発した奉書は、藩主病気により上京遅延を謝罪するという内容であった(『維新史料綱要』)。 †薩摩藩の暗躍[#「薩摩藩の暗躍」はゴシック体]  もう一つは、夜、神山衛士のもたらしたものである。 「薩摩藩邸に出入りする浪士らが江戸市中に火を放つ陰謀をめぐらしている」  この日、幕府に密告するものがあった。三田薩摩藩邸の藩士と浪人らが、市中に火を放って、その混乱に乗じて、公現法親王《こうげんほつしんのう》(上野輪王寺門主)・静寛院宮《せいかんいんのみや》(徳川家茂未亡人、和宮《かずのみや》)・天璋院(徳川家定未亡人、島津斉彬養女)を奪取しようと計画している、と。  おなじ情報は、一一月七日にも島原藩留守居の内山四郎兵衛からきいた。 「それがしは、薩摩の増光新八郎・野村彦五郎というものをかねてから知っているが、最近、この二人の所業にあやしむべきことが多い。もれ聞くところによると、浪人ら八○余人が薩摩藩邸に潜んで、江戸に火を放とうとしている」  増光新八郎・野村彦五郎は、益満休之助《ますみつきゆうのすけ》・伊牟田尚平《いむたしようへい》であろう。ともに西郷隆盛の懐刀といわれ、薩摩藩尊攘過激派の代表である。とくに伊牟田は、万延元年アメリカ公使館通訳ヒュースケン斬殺の一味であった。  今年五月の四侯会議の挫折以後、大久保・西郷らが武力倒幕に方針転換したことは前述した。そして、武力行使の名目をたてるため、長州藩と協力して公卿に工作して「討幕の密勅」なるものを降下させることに成功した。ところが、そのおなじ日に大政奉還が上表されたため、密勅の実行がさしとめられた。武力行使どころか倒幕そのものの名目さえ失いかけた西郷は、そこで、局面の打開を江戸にもとめた。江戸市中を混乱させて幕府を挑発しようとたくらんだのである。西郷の密命をおびて、藩士益満・伊牟田らは江戸に下り、時事を慷慨する尊攘浪士たちを三田の薩摩藩邸に集めた。薩摩藩邸に集まる浪士は、前後約五○○余人の多きにおよんだという。  一一月二日、三日、幕府は非常事態にそなえて、諸藩に江戸市中の非常警戒を命じた。学海は、三日の朝、老中稲葉美濃守(正邦)に呼ばれ、佐倉藩にも、桜田門外の警衛を命ぜられた(のち雉子橋門外警衛に変更)。学海は国元に急報、六日に鉄砲隊一個大隊が江戸に到着した。  一○日、大目付川村信濃守(一匡)から、佐倉藩に、家老一人さし越すよう指示があった。佐治《さぢ》三左衛門が行くことになり、介添えで留守居の学海もついていった。江戸城柳の間で待っていると、大目付木下大内記(利義)が両人を召して申し渡しがあった。 「このたび、貴藩に出兵を請うたのは、ただに江戸市中警備のためだけではない。ねらいは、諸藩の兵制を統一しようというところにある。聞くところによれば、佐倉藩の兵制は、諸藩にぬきんでるという。よろしく諸藩の先頭にたって尽力してもらいたい。また、現今の幕権困難の形勢にいたっては、言路を尽くし、一時しのぎの策といえども遠慮せず幕府のために建言してほしい」 †紀州藩邸大集会[#「紀州藩邸大集会」はゴシック体]  さて、紀州藩の主唱による、幕勢回復の方策をたてるための会議の開催が、まず一一月三日ということに決まった。前日、学海は武内孫介から、あすの会議には御三家の家老も出席する予定だときいた。この赤坂紀州藩邸会議は、三、四、五日の三日間にわたって開かれた。  まず三日は、親藩および帝鑑の間詰め大名家の重臣あるいは留守居などで、「来会するもの八十藩|許《ばかり》、その人百七、八十人に至る」と学海日記にある。朝の八時ごろから始まり、周旋方(世話役)五人が檄文を一同に示して、忌憚のない意見をもとめた。『復古記』巻三に載るその檄文は次のようであった。 [#ここから2字下げ] まず、名分条理を正すにつき、親藩・譜代をはじめ、君臣の分際を尽くすべきこと。諸藩同心協力して、兵制を統一すること。 このたびの政権返上の挙は、稀世の猛断、将軍家の至誠の英図より出たもの、じつに感涙に堪えない。あわせて徳川家門・譜代の臣下の立場から申すならば、天子いとけなく〔明治天皇、この年一六歳〕京師動揺のおりがら、家康公以来つづく政権担当という天下の大業を、卒然にわかに抛つこと、いかにして座視傍観できようか。悲憤痛恨とはまさにこのことである。かくなるうえは、利害損得をかえりみず、おのおの徳川家のためにますます大義をつとめ、もって数百年の厚恩に報いるのほか道はない。 そもそも家康公が御武徳をもって天下を平定され、譜代・外様を諸侯に封じてより、いずれも君臣の名分をあい守ること、いまに至るまで三○○年。その功徳の盛んなること、前代に比類もない。ところが、近年、草莽《そうもう》不逞の徒が、奸説を鳴らして禍を国内にひきおこして、徳川家はその勢力が削がれ、孤立の形勢にあいなった。すでに討幕の企てまで唱えるにいたり、また一変して今日の事態〔政権返上〕に陥ってしまった。あまつさえ、諸侯の進退は議奏・伝奏の取扱たるべきの沙汰、かつまた召しに応じて上京した諸侯は朝廷の臣下たるべき沙汰も出るやの風説もある。じつに恐れ入った次第で、もし右の朝命が下ったりしようものなら、即日、幕府との君臣の恩義も絶え、またぞろいかようなる異変がおこるやも計りがたく、じつに寒心の至りである。親藩・譜代は、徳川家の子弟功臣である。それぞれ大封をあてがわれてきたこと申すまでもないが、これとて偏愛の私情より出たものではもとよりなく、かかる時あらばあくまで徳川家擁護救済の藩屏《はんぺい》たるために建ておいたのである。だが、泰平数百年、上下の情は隔絶し、君臣の恩義も薄れ、親藩・譜代までもが民と土地とを私物化し、はなはだしきは奸説に籠絡されて、幕府と君臣の大義を忘れ、徳川家大難にのぞんで、はからずも不忠不義に陥るも計りがたい。 近年、国家多難のおりがら、親藩その他諸藩が朝幕間を周旋して幕府勢力回復につとめていたところに、にわかに徳川家も臣僕の一諸侯と同列になられるにいたった事態、まことに本末転倒、道義も地をはらうと申すべきである。だれか、幕府と君臣の大義を明らかにし、むしろ忘恩の王臣たらんより全義の陪臣となり、ますます武を奮うの名目を立てるならば、徳川家の失地も回復挽回のチャンスもあろうかと思われる。なお深謀お見込みもござれば、国家のため、わけてお示しくだされたい。 [#ここで字下げ終わり]  奸賊(薩長)の非を鳴らし、親藩・譜代が力をあわせて、幕府擁護・幕権回復をめざさんと呼びかける。だが、檄文の最後の部分「むしろ忘恩の王臣〔朝廷の臣〕たらんより全義の陪臣〔幕府の臣〕となり」はいささか過激ではある。  紀州藩邸内は紛雑をきわめたが、多くの藩は、はっきりとした意見をださなかった。賛成とも反対ともいうものなく、ただ「再議して答ふべし」、藩邸にもちかえって相談するというだけであった。学海は、「あゝ、世、義烈の士なく、綱常地に墜ちんとす」と日記で嘆息する。だがしかし、態度をあいまいにする藩を、ここで責めるのは酷というものであろう。親藩・譜代といえども、お家の事情というものがある。前述したように、ほとんどの藩は現在、事態のなりゆきを見まもっているときだから、出席者のなかには、このようないささか穏健さを欠く檄文に面喰らったものも多かったにちがいない。  佐倉藩においても、それはいえることであった。この夜、学海は紀州藩邸から帰って、同僚の野村弥五右衛門の家に寄った。野村は、学海が今回の会議の世話役になったことを喜ばなかった。老練な野村としては、学海が剛直な若さにまかせて過激な佐幕運動にはしることを危惧したのである。留守居役としてはすこし冷静さに欠ける、とでも諭したかもしれない。学海は学海で、そういった野村を微温的だと不満であったろう。盃をかさねるにつれ、野村はしだいに学海を責める口調になった。学海はただ笑ってこたえなかった。  四日、この日は、雁・菊の両間詰め大名家の重臣たちが紀州藩邸に集まった。紀州藩周旋方からの書状で、昨日の会議の佐倉藩の結論を持って来会されたいといってきた。学海は、夜、家老佐治三左衛門宅に行って、その問題について協議した。ことしの五月に交代して帰国していた国家老の平野知秋が出府してきており、同席した。佐倉藩の回答は、会議での檄文に同意、つまり「幕政を挽廻するにあり」。  五日は、柳の間詰め諸藩の重臣を集めての会議であった。学海は、きのう藩機密掛として出府してきた島田謙二・渡辺又十郎をつれて会議を傍聴した。  午後、紀州藩政事局に、庄内・会津・桑名ら八、九藩の重臣および留守居が集まった。佐倉藩からは江戸家老の佐治三左衛門と留守居の学海が出席した。議題は、朝廷から督促されている藩主上京命令にどう対処するかということである。議論の趨勢は、いったん上京のうえ、朝廷の臣となることは辞退すべきである、ということであったが、では具体的な行動はとなると、意見は紛々として深夜におよんでも決しなかった。 「大名全員が上京する必要はない。代表を選んで一藩が行けばいいのではないか」 「諸藩上京するにしても、藩主は行くにおよぶまい。重臣一人で十分だ」 「天皇に哀訴してみてはいかがか」 「とんでもない。われら親藩・譜代は、朝廷とはなんの関係もない。どこまでも徳川の臣下だ。上京して二条城に駆けつけ、幕臣として忠節の志を言上しよう」 †諸藩の対応はあなたまかせ[#「諸藩の対応はあなたまかせ」はゴシック体]  三日間におよぶ紀州藩邸会議においてしめされた檄文にたいして、諸藩重臣たちは、藩邸にもどって、それぞれの藩論を明確に表明しなければならなかった。どのていどの藩が意思を明らかにしたかは、いまにわかに知りがたいが、『小宮山綏介筆記』が二通(『復古記』巻三所収)、『武内孫助筆記』が七通の答書を記載する。 〔表2〕(巻末参照)  佐倉藩は会議の翌日に結論を出している(前述)が、そのほかも、早い藩は会議後一両日のあいだに答書を作成しているようである。多くの藩は、示された檄文にたいして、 「逸々《いちいち》ご尤《もつと》も至極の御次第」(岡部藩) 「ご尤も至極の御賢論と相心得、更に別意ござなく候」(伯太藩) 「御口達の趣、外に申し上げ奉り候様ござなく」(荻野山中藩) 「もとより御同意仕り候ふほか存じ寄りござなく候」(山上藩) 「君臣一同、聊《いささか》かも異意ござなく候」(刈谷藩) と異論なきことを意思表示するものの、言辞はあたりさわりがない。さきにもいったように、檄文にはいささか過激なところがある。かれらはそれが分かっていて「ご尤も至極の御賢論」などといっているのであろうか。  これらの答書は、いずれも会議を主宰した紀州藩に宛てた文書である。だが、それぞれの藩固有の見解を主張したといったところは少なく、文末の多くが「此の上御沙汰の品もござ候はば、宜しく願ひ奉り候」、「宜しく御沙汰なさるべく存じ候」、「然るべく御沙汰なしくだされ候ふやう、願ひ奉りたき旨申し聞け候」、あなたまかせの文句であるところに、檄文の趣旨に同意というより、間に合わせのおざなりな返事であることがうかがわれる。  なかで小泉・須坂・三田《さんた》三藩主連署の答書が、倒幕の妄説を憎むあまりに「天朝を捨つるの論」のごとくに誤解されかねないと懸念をもらしている、それが冷静な判断であろう。そして、「幕府御恢復」がかえって「王室御安泰の御基」なのであって、王室を泰山の安きに置きたてまつるための幕権回復なのだという、水戸藩主徳川|慶篤《よしあつ》名義の答書にある論理のほうが、客観的情勢からみて、むしろ幕府にたいして誠実な回答である。  学海は、八日、武内孫介の家で、紀州藩上層部から圧力がかかって、檄文の書き改めを命ぜられた、ということをきいた。その座にいたものはみな、それをきいて痛憤にたえなかったが、全文を書き改めよというわけではないことを知って、議論は収まった。  紀州藩重役が危惧したのは、やはり、京都朝廷を否定しかねない過激さであった。結局、書き替えられた主な箇所は、「|利害損得をかえりみず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|おのおの徳川家のためにますます《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》大義をつとめ」の傍点部を「ますます国家のため」と替え、「譜代・外様を諸侯に封じ|てより《ヽヽヽ》、|いずれも君臣の名分《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をあい守ること、いまに至るまで三○○年」の傍点部を「上は王室を翼《たす》けいただき、下は人民を慰撫してより、おのおの上下の分」と替え、「親藩その他諸藩が朝幕間を|周旋して幕府勢力回復につとめていたところ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」を「周旋尽力するのもまったく天下の治安をはかるからである」と替える。幕府中心の色彩を極力消そうとつとめていることがうかがえる(『新聞薈叢』)。  そして、紀州藩がいちばん問題にしたのは、平野知秋の手記(『復古記』所収)によれば、檄文の末尾ちかくの「むしろ忘恩の王臣たらんより全義の陪臣となり云々」という例の部分で、結局そこは削除されることとなった。 †諸侯上京拒否を決議す[#「諸侯上京拒否を決議す」はゴシック体]  さて、五日午後に紀州藩邸でおこなわれた上京可否の議論について、その場の空気が上京拒否であったことは、前にみたとおりである。それを受けて、一部の帝鑑の間詰め大名家、一部の菊の間詰め大名家は、それぞれ連署して、藩主上京を督促する朝廷の命を拒否し、重役クラスが代わりに上京する、ということに決した。  佐倉藩主堀田相模守正倫も、当初の上京の決定を取り消して、この上京辞退の奏書の署名に名を連ねることとなった。そして、その奏書案を、佐倉藩の学海が書くことになった。八日の昼すぎ、学海は、紀州藩政事局に岡田清右衛門をたずねて奏書案を示し、翌九日に清書して藩庁に提出した。 [#この行2字下げ]此の日、閣老・伝奏に上《たてまつ》りて君侯上洛を辞し給ふべき書を草して政事府に上る。  奏書は、幕府閣僚(在京)宛てのものと武家伝奏宛ての二通を作成した。まず、幕閣宛ての内容は、概略次のようなものである。 [#この行2字下げ]このたびは朝廷よりの直接の御召しではあるが、われらは朝廷にたいしては陪臣の身分であり、公儀〔幕府〕をさしおいて、直接の御用をうけたまわる筋合いにはない。召しに応じて上京すれば、あるいは意外の御用向きがあるかもしれず、ことによっては、御当家〔徳川家〕にたいして君臣の大義を失う仕儀にもなる。それでは歴代将軍様にたいしてもわが先祖にたいしても申し訳がたたない。かつ上京して朝廷より政治向きのことを尋ねられて、右のようなことどもをいちいち答えていては、今度は陪臣としての身分がたたなく、いずれにしても、当惑に至るは必定。右の次第であるから、藩主上京は何の意味もなく、よっておそれながら、家老一人をもって哀訴つかまつる。この儀、なにとぞ伝奏衆までよろしく御達しのほどを。(『復古記』巻五所収)  これに諸侯の名を連署し、藩重役クラスの代表をえらんで使者にたてて上洛させる。そして在京の幕閣に差し出すという手筈であるが、幕閣が受け取らないということになった場合のことを考えて用意したのが、武家伝奏宛ての奏書である。内容は、右の文面を朝廷向きに手直しし、最後を、「都《すべ》て是までどおり、徳川家臣僕の御取扱に成しくだされ候ふやう、泣血懇願奉り候」と結んでいる。  一一日、忍《おし》藩の用人の山田求馬から、溜の間詰めの諸侯はみな上京と決まったことをきかされた。佐倉藩では、機密掛の渡辺又十郎・島田謙二の二人が、藩主上京拒否の奏書への連署参加者をさらに募るため、帝鑑の間詰め一○万石以下の大名家にでかけていった。  そして、一一月一三日、帝鑑の間詰め諸藩の家老クラスが佐倉藩邸に集会し、諸藩重役上京の件および学海の草した奏書案を検討した。その翌日、小田原藩留守居星野平八からの使いで、昨日の奏書案を、帝鑑の間詰め取締の諏訪藩が書き改めるという話のあることを知らせてきた。そこで、学海の兄依田貞幹(江戸家老)が小田原藩に駆けつけて、同家家老の大久保弥右衛門と同道して諏訪藩邸にのりこんでいった。兄からの報告によれば、諏訪邸には帝鑑の間詰め取締の諸侯が集まって、奏書案書き替えの相談をしていたが、貞幹らは説得して、書き改めることをやめさせた。  その奏書案を諏訪因幡守が内閲したうえ閣老小笠原|長行《ながみち》に見せたところ、許可がでたので、奏書の正書を佐倉藩の平野知秋が、その原稿を小浜藩重臣岡見左膳が持参することになった(『復古記』所収平野知秋の手記による)。岡見左膳一行がまず先発した。  平野知秋はきたる一八日に江戸を出発することとなり、佐倉藩は、その随伴として学海を指名した。ところが、これをきいた紀州藩の榊原耿之介と武内孫介が佐倉藩邸にやって来て、家老の佐治三左衛門に面会をもとめ、学海の京都行きをやめさせるよう要求した。江戸の佐幕派諸藩邸では、佐倉藩が中心となって諸藩の兵制統一が急がれており(前述)、いま学海が江戸を離れると、江戸での人材が不足する、というのがその理由であった。佐倉藩上層は、余人をもって替えがたいという榊原らの説を入れて、学海の京都派遣は中止となった。学海本人は、ちょうど小浜藩に所用ででかけていて留守であった。帰宅後、そのことを佐治からきかされた。 [#この行2字下げ]余、是の行は志を決して国の為に一議論を吐かんと思ひしに、かくなりたらむにはその志も空しくなり行くこと無念なれども、事定まりしうへはいかにもせん方なし。止《や》むことを得ずして止《とどま》ることとはなりぬ。  学海としては、奏書案を作成したこともあって、国(幕府)のため、京都で気を吐いて争論をおこそうと張り切っていた。が、上司の決定には従わざるをえない。学海のかわりには島田謙介が行くこととなった。  一八日、平野らは、予定どおり江戸を出発。京都行きをはずされた学海は「遺憾」の念にたえなかったが、このところの学海がいささか過激にはしるきらいのあることは、同僚たちの気がかりになっていたらしく、藩機密掛の渡辺又十郎が学海に忠告した。 「最近のきみの議論は、激烈にすぎて慎重に欠けるところがある。国を憂うるの志はもっともではあるが、大事を成すものはいますこし沈着堅実の風をもつべきであろう」 [#この行2字下げ]余もこの病あることを自ら知れども、改むこと能はず。今よりして勉めてその誡《いましめ》に従はんとす。実に益友はありたきものなり。  学海は誠意ある諫言に感謝した。 †佐幕派諸藩兵制統一問題[#「佐幕派諸藩兵制統一問題」はゴシック体]  幕府から佐幕派諸藩にたいして期待された諸藩の兵制統一の問題について、紀州藩邸会議の檄文の冒頭にあったように、やはり紀州藩が主導で動くことになった。  外交や攘夷の問題にからんで、幕府や諸藩が緊急に取り組まねばならないことは、軍制の改革である。幕府の大きな改革としては、文久二年(一八六二)、および慶応二、三年(一八六六、六七)の二度の改革がある。諸藩でもそれぞれ独自の軍制改革がおこなわれていた。幕府においても諸藩においても、制度的にはそれなりに近代的軍制に整えられつつあった。  そして、対西洋列強の問題もさることながら、いまの幕府にとってさしせまっているのは、佐幕派諸藩を結集して反幕・倒幕勢力に対抗することである。だが、従来のように諸藩に軍役を課すというやり方では、ただ寄せ集めというにすぎず、とても統一の軍隊を編制することはできない。それは、先達ての二度にわたる長州征伐の実質的失敗によってはっきりしている。  遅まきながらも、紀州藩が音頭をとってうごきだしたのは、幕府軍を核とする連合軍形成の具体的方策をたてることにあったのである。  一一月二二日にその集会が予定されたが、それにさきだって一九日、佐倉藩の見解を、家老依田貞幹が代表してまとめた。まず幕府がその基本線をたてるべきことが肝要である。慶安の軍役を改革することを原則にして、軍隊は西洋銃隊で編制する。兵員の数はその石高に応じて定めること。従来の賦役としての軍役だと、藩によって兵士の待遇が違ったりして、それでは士気にも影響するので、兵士の給料を一定にすべきである。また、命令系統を一にするには、官名・号令ともに一定の法をもっておこなわねばならない。とにかく、いたずらに諸藩を会して兵卒を集めても、それらの基本が立たなければうまくはいかないだろう。  以上のようなことを紀州藩に提議したところ、紀州藩目付の田和太一郎が佐倉藩に来て、逐一その詳しい議論をきいていった。  そして、二二日、溜の間・帝鑑の間詰め諸侯の外交官が紀州藩衆議所に集まって、兵制統一の議論がたたかわされた。学海は、かねて用意していた『兵制事宜』を提出した。その大意は、兄貞幹の論に同じだが、「別に一隊を立て、剣法の士を会し、義勇を振起し、団の元気を挽回すべし」というところが、いかにもまだ旧套《きゆうとう》から脱しない儒者らしい議論である。  学海は、兵制統一の実効をあげるために、別に「仏蘭西伝習会」の設立の必要性を説いた。その詳細はわからないが、おそらく、幕府の軍事顧問であるフランス士官を教官として、かつての長崎海軍伝習所のようなものを作ろうという説であろう。そのことを、一二月六日におこなわれた二回目の会議で提案したが、一座の反応は、学海の期待に反して鈍かった。  いうまでもなく、この問題は、きょうあすに結論をだして即実行できるというようなものではない。したがって、王政復古のクーデターがおこり、将軍が大坂城に退いて、幕府軍と薩長軍とが臨戦態勢に入ったとの報が江戸にもたらされるにおよんで、江戸諸藩邸が出兵すべきかどうかという現実問題に当面して、たち消えてしまった。 †江戸・京都間の幕閣の意思通ぜず[#「江戸・京都間の幕閣の意思通ぜず」はゴシック体]  藩主上京辞退の奏上文をもって京都に出張した小浜藩岡見左膳が、早駆けで江戸に帰ってきた。このことを、学海は同藩の留守居成田作右衛門からきいたが、岡見のつたえる京都情報は、江戸で学海らが想像していたところとはかなり違っていた。 「京都では土佐藩などの兵が横行して、幕府は孤立するいっぽうということだ。京の幕閣は、幕府の危急を救うために諸侯のすみやかな上洛を期待しているらしい」  さらに一二月六日、帝鑑の間詰め取締の諏訪因幡守から回覧がまわってきた。「諸侯上洛の朝命を辞退したのは帝鑑の間一同の評議ではあるが、京都より格別の上京命令であることゆえ、江戸警衛の任務につく藩以外は、すみやかに上京すべきであろう」といってきた。このことは、佐倉藩にも老中から個別に達しがあった。だが、すでに上京拒否の使者を京都に派遣してしまった。これだと、江戸警衛の命をうけた藩(佐倉も一一月にその命をうけている)は上京しない言い訳がたつが、そうでない藩は、その立場がない。というので、佐倉藩は依田貞幹を諏訪藩邸にやって掛け合った。結果、上京の儀は京都よりの連絡を待ってからということになった。  前にみたように、佐倉藩ら帝鑑の間詰め諸侯の上京辞退は、徳川家との君臣の大義を立てることがその主意であった。朝廷の招集命令を受けることは徳川家の立場を危うくするやもしれぬ、という配慮からであった。江戸の閣僚もそれを諒承したはずである。ところが、在京の幕閣が諸藩藩主の上京を望んでいるというというのだから、幕府も諸藩も、江戸と京都との時局認識に隔たりのあることが明らかとなった。  ようやくその月の九日になって、佐倉藩京都詰めの永田太十郎から書状がとどいた。 [#この行2字下げ]平野大夫、去月三十日京地着して麟祥院に在りといふ。若藩〔小浜藩〕、京師と江邸〔江戸藩邸〕と大いに議論相違して、京邸留守等は只《ただ》「速かに上京すべし」とのみ言へり。よりて各藩にすゝめて前説をやめて陳ぜず、上洛を促さる。「されども議定せし上はその言撤回せざれ、やむべからず」とて、我が平野氏は猶《なほ》同意せずと云ふ。  ここでも、佐倉藩の京都情報機能の鈍感さが見てとれる。重要任務で出張した一行の京都到着の知らせが江戸にとどくまで九日間というのは、他藩とくらべていささか悠長にすぎよう。  それはともかく、諸侯上京拒否の奏上書の原稿を持参した小浜藩岡見左膳は、平野らより先に京都に入った。ところが、岡見を迎えた小浜藩の京都藩邸では、藩主の上京を主張、岡見を説得して江戸藩邸の藩論を覆してしまった。そこに平野が入京してきたのである。永田が江戸の佐倉藩邸に右書信を発した時点では、平野も頑張って江戸での決定を通そうとしている。  この奏上書がその後どうなったか。平野ら一行が翌年の一月江戸に帰ってくるまで、学海の日記は、この件に関してはなにも語らない。王政復古の報、京坂間の緊張、江戸市中の騒攘、さらに鳥羽伏見の戦とたてつづけにおこった出来事に完全に埋もれてしまっている。のみならず、この奏上書じたいが、京都政局においてはすでになんの効力ももたなかったからである。京都でのその間の事情は、当事者である平野の手記にくわしく記されており、江戸と京都の政治状況認識の落差の大きさがうかがえる。  平野知秋は、京都に着いて(一一月三○日)さっそく岡見左膳に面会したが、そこで岡見からきかされたのは、意外な京都の空気だった。 「当地の事情をよくよく観察するに、江戸で想像していたのとは天地の相違だ。いま、このような奏上書〔藩主上京拒否〕をおおやけに提出したのでは、かえって将軍家にとって不都合になりかねない。将軍慶喜公は、むしろ譜代藩諸侯の上洛を心待ちにしているのだ。したがって、わが藩はその藩論を改めた。当地の大目付にもうかがったところ、そのほうがよいであろうとのことであった。上洛拒否の奏上書については、そのままうち捨てるのも不本意なので、写しを老中板倉伊賀守の御内覧にいれたところ、預かりおくということであった」  岡見左膳はその翌日、京都をたった。江戸にいる藩主を迎えにゆくためである。  奏上書は板倉伊賀守をへて、将軍慶喜の目に達した。平野らにつたえられた将軍の上意は、次のごとくである。 「譜代藩の面々のかくのごとき忠節、満悦の至りである。しかしながら、大政奉還の儀はわが真情より出たものであって、外面を糊塗するものではない。いま、かような書面を差し出されたのでは、かえってわれらの本意にもとり、いかなる不都合が生じるやも計りがたい。いずれも早急に上京いたすように」  江戸の譜代諸藩が徳川家への忠節を表するつもりで上京拒否の決議をしたのに、当の将軍は、せきたてるように、諸藩侯に京都に出てくるよう要求する。これでは、諸藩を糾合して署名を集めた甲斐もなければ、京都くんだりまで使者をおくったのが文字どおりの無駄足におわったことになる。平野知秋も手記に、将軍の上意を記したあとに、「使節の役は相済み候」と書いた。 [#見出し]王政復古から戊辰戦争へ [#この行10字下げ]薩州屋敷焼撃之図。慶応3年12月25日、庄内藩兵を中心に決行。戊辰戦争開戦の引き金になる。三世歌川国輝画。(都立中央図書館東京資料文庫蔵)。 †王政復古大号令[#「王政復古大号令」はゴシック体]  慶応三年(一八六七)一二月一四日は夜に入って、幕閣から藩主に至急の登城命令が来た。異例のことである。学海が御先詰めでしたがった。 [#この行2字下げ]京師より急飛脚来りて、去る十日、長・防等入京の命あり、官位|故《もと》の如し。九門〔皇居の門〕の警衛を薩・土・芸・尾・越前とともに命ぜられて、既に兵端を開くべきの形勢あり。「将軍家危きこといふべからず。忠節を存するものはすみやかに登京すべし」と達せらる。且、「議すべきことあらば申すべし」となり。  史実にてらして一二月一○日前後の京都の動静をたどると、次のようになる。「長防等入京の命あり、官位故の如し」というのは、八日にあった朝廷会議での決定である。すなわち、この会議席上でしめされた「先年来の長州問題につき、寛大の御処置あらせられ、大膳父子〔長州藩毛利|敬親《たかちか》父子〕らの入洛を免《ゆる》され、官位も元の如く復され候」という原案が異議なく認められ、ここに年来の懸案であった長州処分問題の解決をみた。  翌九日、薩摩藩兵をはじめとして芸州・尾張・越前・土佐の兵力が出動、それまで禁裏守衛にあたっていた会津・桑名の兵を追い出して、宮門と宮中の要所をかためた。そのなかで、王政復古の大号令が発せられた。大政奉還・将軍職辞退を受けて、摂政関白・幕府等の旧来の制度官職を廃絶し、あらたに三職(総裁・議定・参与)を設置してまつりごとを執りおこなうことが宣言された。ついで、宮中|小御所《こごしよ》において初めての三職会議がひらかれた。会議は、公議政体論をとなえ徳川慶喜をもこの会議に参加させようとする山内豊信(前土佐藩主)や松平慶永(前越前藩主)が頑張ったが、倒幕をめざす大久保利通・西郷隆盛および岩倉具視らに押しきられて、その深夜、慶喜に辞官・納地を命ずることに決定して終わった。  はやいはなしが、討幕の軍隊を東上させている長州藩の入京を許し、かえす刀で慶喜から内大臣等の朝廷官位の剥奪、徳川家領地の没収を断行したわけで、ここに、大久保・西郷・岩倉らによってしくまれたクーデターが、ほぼ筋書きどおりに成功したのであった。夜が明けた一○日朝、議定として会議に出席していた徳川|慶勝《よしかつ》(前尾張藩主)・松平慶永が二条城におもむいて、会議の結論を慶喜につたえた。  京都から早駆けで目付の遠山修理亮が江戸に帰った。遠山がもたらした情報、 「さる九日の大変革により摂政二条|斉敬《なりゆき》以下国事掛・議奏・伝奏らの公卿の多くが参朝をとどめられ、新たに総裁・議定・参与の三職を置き、政務のことごとくが朝廷で掌握せらるることとなった。芸州・薩摩・土佐・長州らの謀略から出たものである。王政復古の号令は、宮中をこれらの藩兵で固めてから発せられたのだが、それはじつに異様であった」  一四日夜の江戸城での幕府発表は、九日に布告された「王政復古」の号令を諸藩にしめすことであった。ただし、辞官・納地の件については伏せられている(後述)。  そして、幕府の訓戒は、大号令の御趣意を厚く心得よ、徳川家と朝廷との仲は旧に変わらない、かつ人材を早急に推挙せよ、ということであった(『復古記』巻一〇)。したがって、幕府の表向きの姿勢は、朝廷の決定にたいして異議をはさむものではない。むろん、この期におよべば、倒幕派の陰謀であることはだれの目にも明らかなことなので、学海が日記に書いているように、「将軍家危きこといふべからず。忠節を存するものはすみやかに登京すべし」というのが、幕府首脳部の本音であった。  学海は大目付の川村信濃守に面謁し、その非常の事態であることを論じて、進言した。 「京都の変をきいたからは、一日も江戸で安穏としておれない。すみやかに諸藩に命じて兵力を糾合し、閣老の一人を大将として、京に向かうべきだ」  諸藩連合軍を編制して、うって京都に攻めのぼるという案である。学海は、紀州藩重役の斎藤政右衛門が国元から江戸に帰っているということを聞いていたので、紀州藩邸に武内孫介をたずねて、この諸藩連合軍について提案した。 「紀州藩より用人を一人だしてくださるなら、それがしが江戸城に同道して目付にたのんで老中に謁見し、連合軍編制の議を決答させるべく要請したい。よろしく取り計らってもらいたい」  孫介は学海の請いを受けあい、斎藤政右衛門が出向くよう手配し、 「では、あす江戸城でお待ちねがいたい」 と約束した。学海は藩邸に帰り、藩首脳らと夜を徹して協議し、幕府への建白書を草した。その内容は、きのう大目付に進言したことと同じ、早急に上京軍を組織すべしということであった。  翌一五日朝、学海は藩主とともに、その建白をもって江戸城におもむいた。そして、斎藤政右衛門の登城してくるのを待った。だが、その日、夜にいたるまで江戸城に待機していたが、斎藤はやって来なかった。学海は、次の日、武内のところに行って、昨日の違約を責めた。武内は、藩邸内で行き違いのあったことをいって謝り、かわりに同藩目付三輪吉之助を遣って、学海の諸藩連合軍構想を幕府目付に進言させようといってくれた。  だが、学海建策の諸藩連合軍編制の案件は、幕府から回答があったものの、いっこうに具体化しそうなけはいがなかった。そこで、学海は一九日、紀州藩の外交局にでかけていった。 「諸藩の兵を合して登京する件につき、幕府からその命令が出るべくすでに決定したはずなのに、いまにいたっても、なんの沙汰もない。いかがいたしたのであろうか」  紀州藩外交方三輪吉之助・栗生兵助らも、 「仰せごもっとも。登城して目付に問い詰めてみよう」 といった。このあと、周旋社の集会などに出て、夜、藩邸に帰ると、紀州藩外交方から使いが来て、あす、ともに登営して目付に会見しようといってよこした。次の日、学海は江戸城に登り、栗生・三輪らと大目付川村信濃守に謁見して、文書でもって連合軍を編制して上京すべきことを、かさねて建策した。 †江戸と京坂のちぐはぐな意思[#「江戸と京坂のちぐはぐな意思」はゴシック体]  さて、京都では、クーデターによって将軍職を剥奪された徳川慶喜が、徳川慶勝・松平慶永の勧告を入れて、一二月一二日、二条城を出て、大坂城に向かった。老中板倉勝静・会津藩主松平|容保《かたもり》・桑名藩主松平|定敬《さだあき》ら、およびかれらの麾下《きか》の藩兵および幕府軍が従った。その情報を学海は二○日にきいた。  大坂城に下った慶喜は、朝廷への奏聞書を草した。内容は、武装した一部奸藩(薩摩)がひきおこしたクーデターを批判し、こんどこそ天下の列藩の衆議をつくして、正を挙げ奸を退けんとするものであった(『続徳川実紀』。「挙正退奸の上表」という)。それが江戸に送られてきて、老中稲葉正邦は、二三日、帝鑑の間詰め譜代大名家の重役を江戸城に招集し、その奏聞書を披露し、「諸侯急に兵を合して上坂すべし」と命じた。ようやく幕府から諸藩にむけて、出兵の要請がだされたのである。  これにたいする佐倉藩の回答書が、『復古記』巻一二に載る。それによれば、諸藩同盟の軍隊を組み立て、幕閣がそれぞれひきまとめて、きょうあすにも京都に上るべし、つまり、学海がかねてから提唱する諸藩連合軍構想である。  だが、江戸と京坂のあいだに意思の疎通が欠けていたことは、既述のとおりである。松平慶永・山内豊信ら本音は佐幕の公議政体派が頑張っているとはいえ、いまの朝廷政府はクーデターによって成立した政府である。その首謀者大久保・西郷・岩倉らのペースで動いているのであるから、右の慶喜の奏聞書のごときは、反政府文書というべきものである。こんなものが朝廷に奏上されようものなら、慶永・豊信らのこれまでの朝廷工作は水泡に帰してしまうし、へたをすれば、即慶喜討伐ということにもなりかねない。大目付が奏聞書をもって大坂から上京し、慶永・豊信に相談したが、二人がそれに賛成するはずがなく、大目付を説得して上表をとりやめさせた。  ところが、江戸には京坂の動静が迅速につたわらない。京都で虚々実々のかけひきがおこなわれて日々その情勢が変化するが、それが数日遅れで江戸にとどく。政局のこまかい推移を肌で感じられない江戸の幕府や諸藩邸では、その意思決定にどうしても食い違いがでてくる。江戸で幕府発表があったときには、すでに京坂ではそれが覆っているということもしばしばある。げんに、この「挙正退奸の上表」も、江戸城で公式発表され、学海らが大坂に上ろうと意気込んでいた二三日には、大坂の慶喜はあっさりそれをひっこめて、辞官・納地の願書をだすための入京の準備にかかっていた。  そんな江戸と京坂とのちぐはぐした空気をふっとばすような事件がおきた。三田の薩摩藩邸が佐幕派諸藩の襲撃をうけたのである。 †薩摩藩邸襲撃事件[#「薩摩藩邸襲撃事件」はゴシック体]  これよりさき、武力倒幕の名目をつくるため、西郷隆盛の密命をおびた三田の薩摩藩邸では、尊攘激派の浪人たちをかり集め、かれらをつかって江戸の町に騒動をおこそうとして、市中に火を放つ計画をなんども立てた。盗賊の横行も頻繁になり、なかには、七、八○人ほどが徒党をくんで人家に押し込んで金品を奪うものがあった。薩摩藩邸にたむろする浪人の仕業《しわざ》であるともっぱら噂され、それに乗じてほんものの盗賊団も町中を荒らす始末であった。 [#この行2字下げ]薩人、大いに浪人を邸中にやしなふて不忌《ふき》の謀《はかりごと》あり、それ等が所為なりと。(一一月一七日)  幕府は、そのため諸藩に江戸城内外の要所の警備を命じた。佐倉藩も国元から出兵して江戸城雉子橋門外に詰めていたことは、すでに述べておいた。  一一月二九日夜、学海は、老中稲葉正邦に呼ばれ、佐倉藩に江戸市中|巡邏《じゆんら》の役を命ぜられた。人員は雉子橋門外屯所の兵力を割くようにということである。翌日、学海は、江戸市中警備取締の任にあった庄内藩に行き、留守居の岡田五十馬と会って巡邏役の先例を問いあわせた。そのあと、同役を命じられた鳥居丹波守(壬生藩)の屋敷に行って、今後たがいに連絡調整しあうことを申し合わせた。  一二月に入って、江戸の町はますます物騒になった。学海の記すところによれば、一日の夜中に赤坂の質屋に四○人ばかりの賊が侵入、二日には撒兵《さんぺい》隊(幕府創設の洋式の歩兵隊)が霊岸島で強盗にあって負傷者がでた。一○日には、新聞会で、薩摩藩邸のものがまたもや江戸に火を放つ謀略のあることをきいた。  佐倉藩からはあらたに三○名の兵隊が江戸に到着し、神田内巡邏のため屯所二箇所を預けられた。そして、兵を割いて、歩兵一小中隊を江戸城平川口に、一小隊をおなじく吹上《ふきあげ》に駐屯させるよう、老中より命じられた。  このような厳戒態勢のなか、二三日、江戸城で火災があった。急を聞いて学海は馬で駆けつけ、藩主正倫公も鉄砲隊をひきいて出勤した。火は二ノ丸からおこって、しばらくして鎮火したが、城中は混雑をきわめた。原因ははっきりしないが、薩摩藩邸につどう浪士たちの仕業であるという噂が江戸中にひろまった。  翌二四日、大目付の木下大内記から佐倉藩に、家老一人登城するよう命ぜられたので、学海が介添えで伺候した。夕刻、大目付から申し渡された。 「薩賊の不穏分子に不測のはかりごとがあるので、警戒をおこたってはならない。雉子橋門の警固を厳重にするように」  おなじ日、市中取締の庄内藩家老松平権十郎も、老中に呼ばれて登城していた。幕閣と庄内藩との話し合いは、学海が「密議やゝ久し」と書きとめている。  次の日、二五日早朝、学海は兄貞幹の役宅にでむいたところ、貞幹言う、 「雉子橋門の屯所のわが藩軍より、たったいま急報があった。きょう薩摩藩邸襲撃に決して、庄内藩陸軍がこれに向かったということだ」  言いおえないうちに、薩摩屋敷のある三田方面から火の手があがった。学海は様子をみるために馬を駆って藩邸を出ると、ちょうど庄内藩の使者に会った。かくかくしかじかで、貴藩にも出兵を願いたいということであった。学海は、藩邸にとってかえし、大砲二門・歩兵一隊・短兵一隊を出動させ、みずから指揮して赤羽根橋に布陣した。  薩摩屋敷から出てきた浪士体のものを詰問したが、賊は服従せず、かえって砲撃してきたので、やむをえずしてこれを討ちとった。  終わって、学海は、幕臣松平左衛門・庄内藩重臣石原倉右衛門に会った。薩賊の多くは、屋敷に放火して脱走したということであった。  この薩摩屋敷襲撃は、維新史でも有名な事件である。学海が前日に江戸城で目撃した幕閣と庄内藩との密談は、このことの打合せであったと思われる。幕府の指示によって、庄内藩兵約千人を主力に出羽松山・上ノ山・前橋・西尾・鯖江の各藩兵あわせて総勢二千余人が薩摩藩邸を包囲した。  この事件が大坂城につたえられ、幕府軍や会津・桑名などの主戦派を刺激して、やがて鳥羽伏見での会戦につながってゆくのである。これは、客観的にみれば、武力倒幕の口実をつくろうとしていた西郷ら薩摩藩の仕掛けたワナに、幕府がまんまとはまったということになる。薩摩が天下を取ったという結果論からいえば、軽率の挙であったことはまぬがれない。無論、襲撃を実行した幕府や佐幕派諸藩に、そこまでの見通しがあったわけではないし、学海自身もあとでこの日の戦況をきいて、「上ノ山侯〔松平|信庸《のぶつね》〕自ら戦地にのぞみ、近習の士七人死す。賊を斬ること又甚だ多し。侯の勇猛、実に当今に比類なしといふべし」(一二月二八日)と記している。後日の災難に思いいたれとまではいわなくとも、いささか無邪気の感なきにしもあらずである。  そして、学海が同時進行で書き記しているところによって、この事件に佐倉藩も一枚かんでいるということの分かるのが興味ぶかい。さらに興味をそそられるのは、にもかかわらず、明治維新政府時代以後に記述された幕末維新史(郷土史も含めて)には、この事件の関係者として学海の名はもちろん、佐倉藩の名がみあたらないということである。  たしかに、学海日記によれば、佐倉藩は前日の謀議にくわわっていないようであるし、当日の佐倉藩兵も直接襲撃に参加したようすもない。だが、『黒川秀波筆記』(内閣文庫蔵)などには、討手のなかに堀田相模守の名もあるから、佐倉藩を一味とみなす目は一部にあったようである。それが、歴史として冷静になって語られるとき佐倉藩の名が表面に出てこないのは、あるいは学海らの努力があったのかもしれない。 †丁卯の暮れ戊辰の春[#「丁卯の暮れ戊辰の春」はゴシック体]  学海は、暮れから体調をくずして年を越した。二八日はそのため外出せず、翌日は公用で紀州藩邸に行った。大晦日には町に出て飲むのが例年のならわしであったが、今年はひかえようと思っていたところ、渡辺又十郎など同藩の友人が誘いにきたので、藩邸ちかくの料亭にくりだした。  明けて慶応四年は戊辰《ぼしん》の年。元日は、藩主が賀正の儀のため江戸城登城。学海が御先詰めを勤めたが、日記には「余、病あるを以て出行くに懶《ものう》し」と書く。この日、学海の家に小田原藩日治孝太郎・佐倉藩岩淵哲太郎・大築保太郎がやって来て、昨年来の京都情勢について論議した。「すみやかに兵を発して、一挙に薩摩・土佐を討つべきである」という岩淵の意見に、学海は快をおぼえるけれども、それが実行されないことをもどかしく思う。  二日は「余が病ますます甚だし。酒肉を禁ず。無聊《ぶりよう》いはん方なし」、三日は「やましくて記すべきことなし」と、学海は連日伏せっているごときである。  四日、武内孫介からの手紙をうけとった。それは次のような内容であった。 [#この行2字下げ]尾州老公〔徳川慶勝〕、しばし大君〔将軍徳川慶喜〕をすゝめ奉りて二百万の封土を献ぜさせらる。大君きゝ給はず。或ひは云ふ、「内大臣を返し奉るべし」と。  前尾張藩主が徳川慶喜に、幕府領二○○万石を朝廷に献上するよう勧め、そして、征夷大将軍に与えられる内大臣の朝廷官位も返上するという。学海は、「此のこと不審」と記しているが、これは、昨年暮れ一二月二六日の大坂城での出来事である。  昨年一二月の王政復古宣言のあとの宮中小御所会議(三職会議)の結論が、慶喜への辞官・納地命令であることは前述した。決定後ただちに松平慶永・徳川慶勝が二条城の慶喜にそれをつたえ、慶喜は松平容保・松平定敬・板倉勝静らを従えて大坂城に下った。ただ、このときの三職会議の結論については、岩倉具視・大久保利通ら倒幕派と松平慶永・山内豊信ら公議政体派とのあいだに解釈の違いがあったため、たがいに策を弄した暗闘ののちの最終的な決着は、条件面で倒幕派がかなり譲歩したものであった。その最終案をもって、二六日に慶勝・慶永の二人が大坂城に入って慶喜に勧告した、それが、右孫介書簡の内容である。幕府寄りの決定であったから、慶喜もすすんでそれを受諾したというのが真相で、「大君きゝ給はず」とあるのは正確ではない。  その実質はどうあれ、慶喜にたいする辞官・納地命令は、昨年一二月九日の王政復古宣言直後の会議で決められたことであった。が、それは京都の密室で展開されるかけひきであって、直後の一二月一四日の幕府発表でも、この案件については伏せられていた(前述)。学海にとって、辞官・納地問題は、年があけたこの日(一月四日)、はじめて知らされたことであった。だから、日記に「此のこと不審」と書かざるをえなかった。  同日、会津藩邸からも使いが来た。あす酔月楼で諸藩の有志を集めて時勢を議論するので、ぜひとも出席してほしい、と言ってきた。学海はまだ気分がすぐれなかったので、かわりに渡辺又十郎に行ってもらった。渡辺は帰って会議のようすを報告した。 「集まったのは三○人あまりだった。会津の人々は、わが佐倉藩が兵隊を京都に送らないことをたいへん不満に思っているらしく、いろいろと非難された。依田先生は、このことについて、いかが思し召しか」  会津藩は、京都守護職をつとめていた藩主容保の指揮で、いま現在、五千余人の兵力を大坂城に駐屯させて、幕府方戦力の中核となっている。佐幕派中の佐幕であるから、佐倉藩らの譜代諸藩の優柔不断さにいらだつばかりであったろう。 「それがしも、このことに関しては、重役にたびたび言上しているのだが、いまにいたるまで藩の決定をみず、いかんともしがたい」 と答えるしかなかった。  この渡辺又十郎は、昨年一一月に国元から出府し、学海に付属して助手を勤めていたのだが、六日朝、藩命をおびて国元に出発した。藩命は、佐倉藩に預けられている水戸藩天狗党の一味を説諭する役目であった。  ことはふたたび、昨年一二月二二日にさかのぼる。  その日、鳥居家(壬生藩)留守居代理の山口志兵衛が佐倉藩邸に学海をたずねてきて、大目付川村信濃守から内命のあったことをつたえた。それは、元治元年(一八六四)に筑波山挙兵の天狗党のうち脱走して投降した連中(「常野降人《じようやこうじん》」と呼ばれる)が諸藩に預けられているが、このたびかれらの罪をゆるして京都に送り、二条城の警護にあたらせようというものであった(もっとも、この時点で二条城はほとんどからっぽで、幕府本拠は大坂城にあった)。そこで、その常野降人を預かっている諸家の留守居を、二四日に忍藩邸に招集して、旅費等のことについて相談し、関係諸藩の連署で幕府に伺いをたてた。『維新史料綱要』等によれば、常野降人上坂の許可が二五日に幕府から下りている。  この儀は、忍藩・壬生藩が中心となってうごいたらしく、幕府からの許可をうけて、二七日に忍藩邸でもういちど、関係諸藩留守居が集まって会議がひらかれた。会議において決定したことは、次のとおりであった。   一「赦免の主意を理を尽して説得し、他意なからしむる事」   二「赦《ゆる》せし上は平人となして待遇すべき事」   三「江戸におくり来りて飛脚船に入らしむる事」   四「船の賃銀|并《ならび》に路費五金を与ふべき事」   五「袴・外套を新たに製し与ふべき事」  幕閣から常野降人赦免の正式通知が佐倉藩にきたのは大晦日であった。年があけて、渡辺又十郎がそのために帰藩したのである。  学海によれば、これら常野降人は無頼の徒がおおく、理由なく釈放したのでは世の煩いの因にもなりかねないので、すべからく道理をつくして説諭し、善に帰せしめて敵愾心をおこさせないよう指導しなければいけない。渡辺又十郎の帰国は、すなわち、佐倉藩預かりのこれら無頼の徒を教育するためであった。 †鳥羽伏見の戦の報[#「鳥羽伏見の戦の報」はゴシック体]  しかし、そのころすでに京都では、幕府軍と朝廷軍とのあいだで戦火があがっていた。学海が開戦の報に接したのは八日、小田原藩留守居郡権之助からの知らせによってである。それによれば、さる三日の夕刻から伏見あたりで砲声が聞こえた。小田原藩の京都情報は四日朝に発信されたといい、そのときもまだ砲声はつづいていたという。戦端がひらかれたという第一報だから、戦況の行方はまだ知れない。  次の九日、学海は、紀州藩邸の武内孫介の家に行って、くわしい情報を得た。 [#この行2字下げ]大君、薩賊の罪を鳴らし奏状を上《たてまつ》り給ふ。賊これを拒みしに依りて戦《いくさ》始るなり。 と日記にある。文中の「薩賊の罪を鳴らし」て奉った「奏状」とは、いわゆる「討薩の表《ひよう》」のことである。  昨年一二月下旬の大坂城では、前述したように、辞官・納地の願書提出のために慶喜の入京の準備をしていた。慶喜は、慶永や豊信の忠告にしたがって、軽装で入洛することになっていた。そこに江戸から、薩摩屋敷襲撃の報がとびこんできたのである(二八日)。王政復古宣言以来の薩摩のやりかたを腹にすえかねていた大坂城内の主戦派の憤激は、これで頂点にたっし、にっくき薩摩討つべしという議論でわきたった。城内の世論におされて慶喜がこの元日の日付で草したのが、「討薩の表」である。 [#この行2字下げ]王政復古宣言以来の事態をうかがうに、朝廷の真意とてすこしもなく、すべて薩摩の奸臣どもの陰謀より出たものである。とくに江戸・長崎・関東の騒動は同藩士らの唱導になるもの、皇国を乱《みだ》る所業である。よって、これら奸臣をお引き渡しくださるよう御沙汰ねがいたい。もし御採用なくば、やむをえず誅戮《ちゆうりく》をくわえざるをえないであろう。  この奏上書をもたせて、旗本・会津・桑名の兵を主力とする軍隊を京都に上らせたのだが、文面でもわかるように、これは朝廷に宛てたものである。朝廷に対したてまつり、君側《くんそく》の奸《かん》つまり薩摩藩士らを引き渡してくれと要求した。しかし、その朝廷政府がすなわち薩摩の政府である今日、朝廷がこのようなものを受け入れるはずがない。それどころか、朝廷への宣戦布告以外のなにものでもなかった。大坂城の幕府が兵をうごかしてまで「討薩の表」を朝廷に提出しようとしたのは、すなわち、かれらにそこまでの認識がなかったことを意味する。あくまでも幕府と薩摩との私闘という認識である。  江戸の留守をまもる幕府|要路《ようろ》が鳥羽伏見の戦報を受けたのも、この九日であった。あけた一○日に、在府の譜代諸侯が江戸城に招集され、幕府からの正式発表があった。 [#この行2字下げ]京師より注進ありしによりて、譜代の諸侯を大城に会せらる。即ち大君朝廷に奉らせ給ひし奏聞状を布告せらる。「これに依り感激するともがらは速かに軍列に馳せ加はるべし」と也。  文中の「奏聞状」がすなわち討薩の表で、これを見せて、奮起して京都に攻めのぼろうというのである。大坂の幕閣がこの戦を幕府・薩摩の私闘とみなしていたのだから、ましてや江戸でこの討薩の表に「感激するともがら」がいて「軍列に馳せ加はる」ものがいても不思議ではない。佐倉からも上士隊二中隊・中士隊二中隊・大砲隊一隊・輜重《しちよう》などがぞくぞくと江戸に到着していた。  同日、学海は戦況の詳報をきくことができた。 [#この行2字下げ]此の日きく、「去る三日・四日・五日と三日、伏見・鳥羽・淀にて大合戦あり。歩兵奉行窪田備前守戦死し、其の他死傷少からず。しかれども、|賊徒《ヽヽ》も多く討たれて勝敗未だ決せず」と云ふ。  まだ、状況はいずれとも決しがたいかのごとくであるが、明けて一一日には、幕府軍劣勢の情報が入った。 [#この行2字下げ]此の日きく、「去る五日の戦、伏見の戦、利あらず。|賊徒《ヽヽ》勝に乗じて淀・枚方にせまり、|官軍《ヽヽ》敗走して淀城を去る」と。慨嘆にたへず。  戦場から帰った会津藩士からきいた話、 「賊軍は、その勢い五、六○○の兵力にすぎない。だが、その戦闘は巧みである。接戦を避け、兵を散らして虚に乗じる戦法を得意としていて、敵軍の離合聚散を、われわれは容易に予測できなかった。わが軍の兵力は敵に一○倍した。にもかかわらず、とても相手にならなかった。これはきっと、わが幕軍の命令系統が統一されておらず、ただただ衆をたのむだけの軍隊にすぎなかったからであろう」  この会津藩兵卒の分析は、かなり正鵠を射ている。敵軍の主力である薩摩・長州藩は、兵制改革によって西洋式の軍隊と戦術に衣替えしていた。対する幕軍は、主力の旗本が洋式をとりいれたとはいっても、完備するにはまだ不十分な段階であったし、会津・桑名にいたっては、戦場では戦国時代とすこしも変わらない。しかも寄せ集めの軍隊で、統制がきかない。とくに旗本軍はそれぞれの所領地からかりあつめてきたほとんど即席の兵隊たちで、給料にも格差があったという。このような軍隊では士気があがるはずもないし、近代的な薩長軍にかなうわけがない。  ところで、鳥羽伏見戦争の情報を日記に記す学海は、まだこの戦を幕府・薩摩間の私闘とみなしている。だから、幕府の軍をさして「官軍」といい、幕府に抵抗する勢力を「賊」「賊徒」と呼ぶ。  今日のわれわれがもっている歴史観、すなわち薩長の官軍、幕府の賊軍という公式は、手続き的には、仁和寺宮|嘉彰《よしあき》親王が征討大将軍に補せられ、錦旗《きんき》・節刀《せつとう》を賜わって薩・長・芸三藩に令を下した正月四日に成立していた。学海は、一七日の日記に、 [#この行2字下げ]去る十一日、征東将軍と偽号せしもの既に東下、轅《ながえ》をめぐらすと聞ゆ。錦旗・勅旨におそれて弐心《ふたごころ》を抱くもの多し。 と記している。この情報源がいかなるものかは、はっきりしない。が、文中の「征東将軍」が仁和寺宮のことをさしているとするなら、それを「偽号」という学海の耳には、情報が正確につたわっていないか、情報が正確であったとしても、徳川譜代の陪臣としての思考回路では、その意味するところを時をおかず理解できなかったか、である。学海にかぎったことではない。慶応四年の一月という時点で、まだ戦塵のおよんでこない江戸で、おそらくほとんどの人はその手続きの意味を正確に理解はしていなかっただろう。 †徳川慶喜東帰す[#「徳川慶喜東帰す」はゴシック体]  情勢をにらみながら京坂に打って出る機をうかがっていた江戸の幕閣や諸藩にとって、一二日の朝、徳川慶喜が浜御殿から江戸城に入城してきたのは、驚き以外のなにものでもなかった。寝耳に水とはまさにこのことで、大坂城で幕府軍の指揮をとっているはずの慶喜が江戸に帰っていたとは。  この日は例の武内孫介の新聞会の日だったので、朝、学海はなにも知らずに紀州藩邸にでかけた。行くと、新聞会はすでにその話でもちきりで、在府諸侯もぞくぞく江戸城に集まっているという。学海はとるものもとりあえず、江戸城におもむいた。城内の紛雑のなかで学海が集めた情報は、次のようなものであった。  緒戦で手痛い敗戦をきっした幕府軍は敗走して、五日、橋本(現、八幡市)に陣していた。ここで迫ってくる朝廷軍(学海日記では「賊徒」とする)を迎え撃つつもりであったが、淀川をはさんだ対岸の山崎を幕軍の命で守備していた津藩藤堂家の軍勢(日記には「橋本関門を守れる藤堂の勢」とあり)が、六日の早朝、にわかに幕軍にむかって発砲した。津藩の突然の寝返りでもって、幕府軍は総くずれとなって大坂城に走り、朝廷軍はいっきに大坂にせまった。その夜、慶喜は、松平容保・松平定敬・板倉勝静・酒井|忠惇《ただとし》(姫路藩主、昨年一二月三○日から老中)ら数人をしたがえて大坂城を脱出、七日に幕府軍艦開陽丸(日記「仏の軍艦」)に乗船し、江戸にむけて大坂湾を出発した(日記に「六日の夜発船」とあり)。おくれて逃れた柴田日向守(剛中《たけなか》、大坂町奉行兼外国奉行兼兵庫奉行)も江戸城にいて、大坂港を出るとき大坂城の炎上を見たと語った。  昨年暮れの入京準備から鳥羽伏見の会戦、大坂城脱出、江戸への逃走とつづくこの間の慶喜の思惑については、はやい段階で戦意を喪失していたという見方から、江戸に着くまで再起する意思はあったのだとする説まで、今日でもさまざまに解釈されている。ただはっきりしているのは、この時期、慶喜の言動が徹底抗戦派の将兵に期待をいだかせながら、結果的にはことごとくそれらを裏切ってしまっているということである。たとえば、大坂城を抜け出す直前まで慶喜は、みずから陣頭にたって朝廷軍に反抗すると言っており、将兵たちは、そのことばを信用していた。  それは、江戸の学海たちにいだかせた期待も同様のものであった。一二日、慶喜が江戸城に入城して諸藩侯に告げたのは、後日の形勢いかんではふたたび西上する意志のあることであった。さらには、庄内藩にたいして、昨年末の薩摩藩邸襲撃の功を賞している。学海たち江戸の諸藩藩士はいま、昨年末の「挙正退奸の上表」や正月の「討薩の表」でしか慶喜の意を知らされていない。だから、かれらにとって、慶喜の東帰は、幕府軍建て直しのためであるとしか解釈できない。  であるから、幕府有司や江戸の諸藩邸における、今回の緊急事態への対応は、そのような線に沿ったものであった。  一二日夜、学海は、藩邸の政事堂で、家老の佐治三左衛門と依田貞幹に進言した。 「ことすでにここに至ったからは、本藩としてほかになすべきことはない。徳川氏と存亡をともにするだけだ。さりとて、むなしく落胆してはいけない。すみやかに庄内藩と協力し防禦の策を決するか、あるいは関東の諸藩の兵をひきいて上洛の建議をすべきである」 †正月一四日開成所会議[#「正月一四日開成所会議」はゴシック体]  その一三日、江戸の諸藩留守居にむけて、紀州藩外交方から、明朝、小川町の幕府開成所に集合されたいという廻状が達せられた。文中に「国家〔幕府〕重大事件に付き会議致したく候」とあった。  この会議については、ながく詳細が知られていなかったが、大正一五年に発見された『新聞薈叢』(昭和九年、明治文化研究会により刊行)中に載る「会議之記」でもってその実態が明らかになった。該書は、開成所会訳社の同人が入手した新聞を筆写したものであり、幕府崩壊をものがたる内部史料として貴重視されている。会議の内容がよくわかって面白いのだが、ただ、その後のなりゆきを知ることのできないのが残念であった。  学海はこの会議に出ており、日記の記述はその後のことにおよんでいて、あわせてこの会議に関する貴重な史料というにたりる。ここでは、『新聞薈叢』と『学海日録』でもって、会議の顛末を記す。  開成所教授の柳河春三は、一三日付けで、老中稲葉美濃守の諮問にこたえて建白書をしたためたが、そのなかに、「大挙西征の事」というのがある。これが、いませまられている幕府勢力挽回の大事業である、だから、神君様(家康)の恩沢を蒙ったほどの諸侯は、同盟してすみやかに西征の軍を出さねばならない、ささいな名分にこだわってこの機会をのがせば徳川氏の運もこれまで、と主張する。京坂の空気のつたわってこない段階の幕臣意識の発露がみえるのだが、「衆説承け合ひ、おひおひ申し上げ奉るべく候」とむすんで、その「衆説」をまとめるために招集したのが、この正月一四日の会議であった。  会議当日の一四日は朝から雪であった。佐倉藩からは学海が出向いた。  会議の冒頭で示された趣旨。国家(幕府)危急にさいし、一致協力して皇国のため徳川氏再興の策をはかりたいので、出席の面々、それぞれの忌憚のないご意見をきかせてもらいたい。決議は幕閣に報告し、お採りあげになるようとりはからうであろう、と。  議題は、「攻守、急務を問ふ」、すなわち、京坂に攻め上るか、江戸で抗戦するか、である。この提議には、東下してくるのが天皇の軍隊すなわち官軍であるという発想がない。「いったん屋敷に持ち帰り重役らと熟考のうえご返答仕る」といって当惑を示す藩もあるが、当日から翌日、翌々日にかけて回答してくるそれら意見書も、「攻」にしろ「守」にしろ、戦争が前提になっており、当面する相手が薩長の「逆賊」であるとするところは一致している。幕府に冠せられた「朝敵」の名も薩長の陰謀からでたもので、西征成功のあかつきにはその汚名も消えること疑いない、と息巻く。会議は、断固「賊徒」を討つべしという空気に支配された。  学海が出した意見は、次のようなものであった(『新聞薈叢』)。 [#この行2字下げ]すみやかに在府の諸侯諸藩士を江戸城に集めて、死をもって国〔幕府〕に殉ずるの議を決すべきである。これが人心を結束する根本で、しかるのち、|賊兵が詔勅を借りて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》攻めきたときには、兵を出して迎え撃つ。いたずらに大坂城回復の議をおこして西上させても、寡兵を疲弊させて、路に餓死者をだし、結局は離散して、千古の恥辱となるだけだ。現在の江戸の兵力は、大坂城にいたそれの一○分の一。それを派兵して江戸をからっぽにしてしまっては、幕勢回復もなるものではない。|賊軍きたらば《ヽヽヽヽヽヽ》、それを迎えて一戦すべし。運尽きて敗れれば、死をもって国に殉ずるのみである。  学海の主張は、ようするに城を枕に討ち死にということで、「守」の見込みである。だが、日記によれば、 [#この行2字下げ]余、初めは守の説を出せしが、会津人と議して、戦に非ざれば時宜合はざるを知りて攻の議に決す。 と、積極的主戦論の会津藩におされて「攻」の説に転換した。  会議全体の雰囲気は、条件付きもふくめて「攻」に投票する意見が支配的であり、とくに紀州藩が積極的だった。 [#この行2字下げ]民心維持のため再挙するのが急務である。水戸侯を将軍の名代にたてて兵を陸路西上させ、幕臣はじめ街道筋の諸藩を糾合して忠義の旗をおしたて、かつ紀州路にひきあげている大坂城退去の幕軍を海路から応援に向かわせれば、幕府軍勢回復もまちがいない。(紀州藩榊原耿之介意見)  翌一五日、開成所教授方の使いが佐倉藩邸に来て、伝えていった。 「開成所は紀州藩の意見にしたがって、出戦ということに決議した。あす江戸城に行って、それを幕府に請願する。貴藩からもひとり江戸城に出頭されたい」  次の日(一六日)、学海は江戸城に登城。開成所・紀州・会津・庄内藩らの代表とともに、まず慶喜の深慮をうかがってそして再征派兵を勧めようということになって、老中に面会をもとめた。ところが、老中はいずれも多忙で会われないという返事であった。しかたなく、目付の河田相模守(煕《ひろむ》)に決議書を托して、薄暮にして下城した。  そこで学海が感じとったのは、主戦論と幕府内閣との微妙なズレである。 †近藤勇と対面す[#「近藤勇と対面す」はゴシック体]  この日、江戸城で、ちょうど京都から退却してきた新撰組の近藤勇《こんどういさみ》・土方歳三《ひぢかたとしぞう》に会った。近藤は去年の一二月一八日に伏見で薩摩兵とのこぜりあいのあったとき肩を負傷して、正月の鳥羽伏見の戦には、土方が手勢をひきいて戦い、隊員の半分以上を失ったといった。二人は虎口を脱して江戸に逃げかえったのだが、その日登城したのは、老中に会って、幕府の軍をたてなおしてふたたび京都に上ることを進言するつもりである。 [#この行2字下げ]極めて壮士なり。敬すべく重んずべし。 と日記に記している。また、戊辰戦争六○周年に出版された『戊辰物語』(昭和三年)にこのときの様子が載っている。学海が、 「伏見の戦争はどうでした」 ときくと、近藤は話をするのさえ苦しそうで、かたわらの青白い小さな人物をさして、 「これは土方歳三です、これにきいて下さい」 といった。土方は屈託なく笑って、 「どうも戦争というものは、もう槍なんかでは駄目です、鉄砲にはかないません」 といったということである。  学海は旧友の首藤新八からも戦のようすをきいている。首藤は泉新九郎と改名して新撰組の差図役であったが、三日の鳥羽街道の合戦で、部下五○人のうち残ったものがわずかに三人であったという。  閑話。負傷した近藤を治療したのが松本順である。松本はのちの初代軍医総監であるが、じつは佐倉順天堂の設立者佐藤泰然の実子であって、学海ともしたしかった。幕府医官松本良甫の養子となって幕府に出仕、大坂城で没した将軍家茂の脈をとった。戊辰戦役では、幕軍のために京都から会津まで移動しながら負傷兵の治療にあたった。いわば軍陣医学のはしりである。  また、会津藩士石川英蔵と名のるものが、一三日深夜、ひそかに佐倉藩邸に学海をたずねてくることがあった。 「わが藩の負傷者が京都から運ばれてきている。ついては、その治療を貴藩の医師佐藤氏に依頼したいのだが」  佐藤氏とは名を尚中《たかなか》、号を舜海といった。泰然の養子で順天堂を嗣いだ。学海はさっそく舜海にかけあった。舜海も献身的に負傷者の治療にあたったことは、現在でも会津の地では美談として語りつがれている。  なお、このとき佐倉藩邸に忍んできた石川英蔵は、この年八月二三日、若松|蚕養口《こかいぐち》で戦死、三一歳であったという(明田鉄男氏編『幕末維新全殉難者名鑑』昭和六一年)。 †慶喜恭順の意を表す[#「慶喜恭順の意を表す」はゴシック体]  前述したように、学海もふくめてその周辺では、慶喜が征西の軍をひきいて再起するものと期待していた。開成所における会議も、それが既定の事実であるかのようにして進行した。勇んで江戸城に決議書をもっていったときも、それは疑う余地もなかったのだが、このときの幕閣の応対ぶりには、いささかの不安をかきたてられるものがあった。  一七日、上総飯野藩主|保科弾正《ほしなだんじよう》が佐倉藩邸にやってきて、藩主正倫と会談をした。これよりさき佐倉藩が主張していた、諸藩連合軍を組織して征西を挙行する件について、保科弾正から幕閣に要請してもらうようにしていた。保科は、昨夜そのことを老中小笠原|長行《ながみち》に進言したところ、老中の返事は次のようであったという。 「多人数での請願は、慶喜公を強要することになりかねない。それがしが折りをみて誠忠の意は申しあげよう」  いかにも迷惑げな反応である。折りをみてでは、この緊急を要するときに頼りない。慶喜公を強要するもなにも、譜代藩が一致団結して徳川家のために前将軍を守り立てようというのであるから、迷惑がられるのは心外である。  ここにきて、幕閣の動きが不可解になった。この幕府内閣の不審な態度に、佐倉藩首脳の事態への対処も慎重になりだす。  翌一八日のことである。この日、小石川の水戸藩邸に諸藩藩士が集まって国事を論じた。学海も家老の倉次《くらなみ》甚太夫(亨)と同席した。席上、 「大旆《たいはい》の出るのを望むのほかない」 というものがある。「大旆」とは将軍の用いる大きな旗のこと、すなわち慶喜の出陣を切望する派である。また、 「大旆を待たず、みずから出て戦おう」  慶喜の真意にかかわらず、自分たちで上坂しようというものもある。結局、水戸侯に依頼して、出兵命令をだすよう、慶喜に要請することに決まった。  紀州藩陸軍奉行の服部磯次なるものが学海のところにやってきて、 「わが藩は発憤して兵を派遣する。貴藩もぜひわれらと行動をともにしようではないか」 と熱心にもちかけた。学海は倉次甚太夫にそのことをつたえたが、倉次の答えは、 「然るべからず」  佐倉藩重臣の慎重論が、ここで顔をのぞかせた。  翌日、学海の助手の八木弘二郎が、きのうの水戸侯の首尾をさぐりに紀州藩邸に行ったが、侯は昨夜登営したきり戻ってこないという。じつは江戸城の幕閣ではきのうから、慶喜の重大発表の準備で、それどころではなかったのである。  幕閣の数日来の煮えきらない態度の真相が、一九日の重大発表ではっきりした。この日、在府諸藩侯を江戸城にあつめ、慶喜は、かれらの前でみずからの真意をはじめて明らかにしたのである。 [#この行2字下げ]大君、恭順を専らとして、大旆を出さるゝの御心なし。只《ただ》謹慎を主とする旨なりとぞ。  慶喜には朝廷に敵対する気はさらさらない、ということが公表された。ひたすら謹慎の意をあらわすだけである。恭順を専らとするというのだから、敵と戦う意志は毛頭なく、江戸城防御の沙汰もなかった。  慶喜がいつそのような心境になったかは定かでない。だが、てっきり出陣の準備をしているものとばかり思っていた学海ら江戸の諸藩藩士の落胆は、容易に想像がつく。とくに藩主東帰以来、積極的に主戦論を主張してきた会津・桑名両藩の憤りはひととおりではなかった。が、「憤激すれどもせんなし」である。  二七日、ふたたび諸侯が江戸城に呼ばれた。学海が御先詰めで伺候したが、この日の幕府発表は、慶喜が退隠の意向をかためたこと、すでに現紀州藩主|茂承《もちつぐ》に家督を譲る工作をすすめていることであった。翌日、越前藩邸に岩谷滝之助をたずねた。岩谷の話では、 「前将軍〔慶喜〕には、恭順の意を決したうえは、朝敵の汚名をそそぐための請願書を出す心づもりがあるらしい。わが殿〔松平慶永〕が朝廷との仲介をすることになった。これは、慶喜公が大坂城を脱出するとき、わが殿と尾張老公〔徳川慶勝〕に城を託し、かつ朝廷にたいして異心なき旨の奏状を預けていたからだ」  二月になって九日、罪をそそぐための斡旋を依頼する請願書が、慶喜の親筆でもって越前・尾張・土佐・芸州・津藩・肥後藩に送られたことを、学海は岩谷滝之助からきいた。  一一日、芝神明の万金楼に帝鑑の間詰め大名家の留守居が集まった。ここで学海は、天皇が太政官代(二条城に設置)に行幸して頒した「御親征の号令」を見た。文中「|慶喜以下賊徒等《ヽヽヽヽヽヽヽ》江戸ヘ遁レ、益々暴逆ヲ|恣《ほしいまま》ニシ云々」とあり、学海は、「大君を指さるゝ事、実に甚だし」と慶喜指弾の激しさにびっくりした。 [#この行2字下げ]天下の事、実にこゝに至る。またいふべきものなし。 とも日記に書いているが、天皇の名でもって前将軍以下幕軍を「賊徒」と呼ぶ京都の意向は、それまで薩摩・長州の徒をこそ「賊軍」とみなしてきた学海にとっては、衝撃であったにちがいない。  慶喜は、朝廷にたいして逆意のないことを示すために、江戸城を出、上野東叡山寛永寺の大慈院に屏居《へいきよ》して罪を待つこととなり、学海は、その布告をこの日にきいた。 †諸藩ぞくぞくと恭順す[#「諸藩ぞくぞくと恭順す」はゴシック体]  前将軍慶喜に京坂への再起の意志がまったくなく、ひたすら恭順の姿勢をくずさないことを知らされた江戸の諸藩藩邸では、そのころから、軍隊を西上させて薩長ともう一戦かまえようというような、勇ましい主戦論にかげりがみえはじめる。  一月二一日、八木弘二郎が紀州藩から仕入れてきた情報は、学海にとって意外であった。紀州藩邸では恭順の説が有力になっており、そのため、主戦派の諸有志の士気が沮喪しつつあるという。紀州は御三家であり、昨年暮れ以来、幕権回復派の支柱となって、もっとも熱心に諸藩間を周旋していた。その紀州藩の世論が恭順となったことは、今後の江戸諸藩邸の運動におおきな影響をあたえる。  二二日、学海は、この日から老中が小笠原長行をのぞいて全員、病気と称して出仕していないことを知った。これは、翌日に断行される幕府の大幅人事異動の伏線で、これまで老中・若年寄の大名が兼任していた海軍総裁・会計総裁・陸軍総裁の職に、幕臣の矢田堀|鴻《こう》・大久保|一翁《いちおう》・勝|海舟《かいしゆう》をそれぞれ抜擢したのである。この人事には、たぶんに敗戦処理内閣的意味あいがあったのだが、「これ、深き思慮のおはしましてなるべし」という学海には、そこまでは分からない。  学海は佐倉藩のなかでは主戦派である。二三日夜、従軍志願の佐倉藩士四人が学海の家にやってきて、時局を論じた。四人は、出でて決戦すべきことをつよく主張する。学海は、はやるかれらをおさえ、陪臣としての大義名分をうしなわぬよう説き、その義侠心を堅持するよう諭した。  だが、佐倉藩でも慎重論が擡頭しはじめたということは前述した。鳥羽伏見の合戦に応じて急遽江戸に出てきていた佐倉藩兵を国元にかえすことも検討されたが、学海はそれをきいて、兄の依田貞幹に説き、藩兵の帰国をなんとかおもいとどまらせた。  学海は、二五日、町奉行小出大和守に呼ばれて出頭し、その帰りに紀州藩邸の武内孫介のところに寄った。一昨日、書信でもって、重役の斎藤政右衛門が国元から帰ったのでお越しねがいたいといってきたからである。学海は斎藤に面謁したが、日記には、 [#この行2字下げ]紀邸は、論大いに改れり。 とだけ書いた。この二一日に八木のもたらした情報が当っていたのだ。学海は斎藤から、紀州藩国元の事情をくわしくきかされたのであろう。江戸では幕勢回復派・主戦派の先頭にたっていた紀州藩も、その藩地は、京都とは目と鼻のさきである。王政復古の直後から京都政府の根回しが国元にあったといわれ、鳥羽伏見で戦端がひらかれるとほとんど同時に、大坂城攻撃の兵を出したのである。  おいうちをかけるように、同日、小田原藩の日治孝太郎もきて、告げた。 「わが藩も紀州と同論である」  小田原藩は、佐倉藩とおなじ帝鑑の間詰め、石高もほぼ同じ、学海にとっては留守居組合のリーダー格である。御三家の紀州、同席の小田原がともに京都政府に恭順の意思を表明した。学海の落胆は想像するにあまりある。日記に、なんの論評もしていないことが、かえって落胆の大きさを表しているといえよう。  慶喜にまったく出陣の意思がなく、あまつさえ謹慎して罪を待つという事態になった。江戸の佐幕派諸藩や藩士たちもしだいに、当初のかけごえに勢いがなくなる。紀州藩をはじめとする西国に領地をもつ諸藩邸では、すでに国元がなだれるように新政府軍に編入されていることをもって、それらの意思を転向していた。  朝廷は、各街道に鎮撫《ちんぶ》総督(のち鎮撫使と改称)を派遣し、江戸へ向かっていた。二月に入って、学海は、桑名藩が東海道鎮撫使に降伏したことをきいた(二日)。現桑名藩主は、昨年まで最後の京都所司代を勤めていた松平定敬である。いま、藩主は慶喜とともに江戸に逃げ帰り、新政府から追われる身である。藩主の留守中、藩老臣たちはすばやく恭順の態度を示したのであった。  学海のもとには、老中の総辞職、会津藩主隠居の知らせが舞い込む(五日)。江戸城では閣僚級の幕臣も、病と称して出仕しないものが多い、とくに目付局はほとんどからっぽというありさまであるという。  西尾藩の加藤友次郎によれば、西尾藩国元では朝廷から「勤王の挙を為すべし」との催促をうけて、やむをえず京都に使者を出したというし、佐倉藩の親戚筋にあたる浜田藩でも、おなじように国元から京都への使者がたったと、江戸藩邸に知らせがあったという。中国筋の諸藩は、ことごとく勤皇の軍に組み入れられ、討幕のために東していた。  そんななかで、学海らに知らされるのが、前述の「(天皇)御親征の号令」である。ここに、はっきりと、徳川慶喜とその与党が「朝敵」と指弾されていることを、学海は認識したのである。 †佐倉藩の立場も微妙になる[#「佐倉藩の立場も微妙になる」はゴシック体]  一月一八、一九の両日、あいついで佐倉藩の親戚の藩の留守居が学海をたずねて、ともに相談をもちかけた。  まず一八日、石見国浜田藩の福田常吉が、自藩の窮状をうったえた。浜田藩主松平|武聡《たけさと》の夫人は、現佐倉藩藩主の姉君である。浜田藩は、慶応二年の第二次長州征伐で幕府方についた。が、長州藩兵の包囲にあうも、援軍来たらず、藩主は城を焼いて、いったん松江に走り、藩主と国元藩士たちは現在、飛び地の美作《みまさか》国|鶴田《たづた》の陣屋にのがれていた。  福田のいうには、藩主は近日中に江戸に参勤するつもりであるのだが、いかんせん、その費用にこと欠いている。ついては、藩主夫人の実家である佐倉藩に援助してもらえないか、ということを申しこんだ。二○日にもういちど福田が学海をおとずれているところをみると、その話は成立したものとみえる。  翌日の一九日は、雲州|母里《もり》藩の留守居細田六郎が来た。母里藩主松平|直哉《なおとし》の夫人も現佐倉藩主の姉君である。細田は、 「江戸に非常事態のおこるような場合は、夫人を佐倉の国元にお落とししたいのだが」 と申し入れた。学海は、そのよし藩主につたえることを約束した。  佐倉藩では、昨年一一月に藩主上京拒否の奏上書をもって京都に出張していた家老平野知秋と随行の島田謙介が、一月下旬に藩邸に帰ってきた。学海は二人から京都の詳しい情報を得た。  朝廷に藩主上京辞退の奏上書を提出するという、江戸で昨年たてた当初の計画は、前述のように、完全にあてがはずれて、まったくの無駄足となった。その後、平野は江戸とはまったくちがう京都の空気を体験し、王政復古の号令を聞き、慶喜の大坂への退去といっしょに下坂した。そのまま大坂で越年して、正月の鳥羽伏見の合戦に遭遇した。そして、総大将の慶喜が脱走して収拾のつかなくなってしまった大坂城を、島田謙介とともにあとにしたのである。  二月四日夜、老中連署の召状が留守居の学海のもとにとどいた。明朝藩主の登営あるべしという命である。翌朝、正倫公が江戸城に登ると、老中小笠原長行より、甲府城代任命の内意がつたえられた。さっそくこの夜、家老佐治三左衛門の役宅に重役・留守居らが招集されて、幕命を受けるべきかどうかの会議が開かれた。一座は、今回の役は辞退すべきであるという空気に支配された。学海ひとりそれに反対し、意見はあす書面をもって申しあげるといって、会議を退出した。  翌日、学海は、甲府城代職を受けるべきことの上書を藩庁に提出した。幕府|艱難《かんなん》のときにあたりその命を辞退するのは、徳川家にたいする忘恩の沙汰である。徳川家を見棄てることにほかならない。艱難なときだからこそ今回の役職は受けなければならない。  だが、学海の説は藩上層部のとるところとはならず、辞職願いの書を幕府に奉ることとなった。学海は言う、 [#この行2字下げ]遺憾とすれども為方《しかた》なし。  甲府城代は慶応二年八月に新設された、譜代大名が勤める幕府の役職である。混迷の政局を背景にして作られたものだけに、また甲州街道要衝の地であるだけに、その責務の重さはいうまでもない。世が泰平なら、これも名誉な職である。だが、時期が時期である。その役が重要であるということは、藩にとっていささか厄介な荷物を背負うことになる。慶喜がひたすら恭順の意をかたくしているいま、さらに桑名が落ちたという情報を得ているいま、幕府の職を受けるということは、藩の命運にかかわりかねない。  譜代藩であることの立場は微妙ではあるが、藩主(稲葉正邦)が現職の老中をつとめる淀藩でさえ、鳥羽伏見の戦役ではまっさきに幕府軍を裏切る、そんな御時世である。藩の存立という秤にかければ、沈むかもしれない船には乗らないというのが、冷静な判断である。佐倉藩はその船に乗らなかった。とりあえず、沈まないという無難な道を選んだことにはなる。  結局、この月一八日に辞職願いがききいれられることになって、わずか十数日間のかたちばかりの在任でおわった。もっとも、前任の真田|幸民《ゆきたみ》(松代藩主)は七日間、その前が大久保|忠礼《ただのり》(小田原藩主)で足掛け四ヶ月というぐあいだから、この役職はほとんど有名無実のまま、正倫を最後に廃止されている。  なお、前述の常野降人教育のため国元に出張していた渡辺又十郎が江戸藩邸に帰り、説諭の効あって、みな感泣して一死をもって国(幕府)に報じるというまでになった、と復命した。佐倉藩預かりの常野降人四○名は、二月九日に江戸にでてきて、幕府への引き渡し手続きをおえたあと、いったん新橋の佐倉藩中屋敷に入った。 [#見出し]佐倉藩臨時京都藩邸 [#この行10字下げ]『中外新聞』外篇第六号(慶応四年四月刊)に匿名で寄せた学海の記事。 [#この行10字下げ]内容が日記と一致する。 †徳川家救解運動はじまる[#「徳川家救解運動はじまる」はゴシック体]  これはのちに明らかにされたことであるが、徳川慶喜は、東帰してさっそく、孝明天皇の妹君で前将軍家茂未亡人の静寛院宮(和宮)に、朝廷への減刑哀訴嘆願を依頼している(『徳川慶喜公伝』)。江戸の諸藩藩邸には、朝廷にたいしてひたすら恭順の態度をしめすことを表明し、松平慶永や徳川慶勝らには朝廷政府への斡旋をたのみ、みずからは江戸城を出て上野東叡山寛永寺に屏居してしまった。  学海らもようやく、今回の戦争が幕府と薩長との私闘などではないことの認識に達した。薩長の陰謀にまきこまれた戦争であるにしても、いささかも逆意はないにしても、幕府は、錦の御旗をおしたてる朝廷の軍隊とたたかったのだ。だから、すなわち「賊軍」であり「朝敵」である。その幕府の最高責任者が、朝廷に哀訴して謝罪を願いでている。ことここにいたっては、徳川家の家門、譜代諸侯、幕府有司らのとるべきは、将軍(もはや「将軍」ではないが)にならうしか道はのこされていない。  二月二日、藩主が江戸城に登営した。学海が御先詰めで従ったが、この日、藩主の詰める帝鑑の間で、朝廷へ哀訴嘆願しようという案が提議されたという。一○日には館林藩の大屋富三郎がやってきて、京都の情勢をつたえて言った。 「京では、薩摩藩士の暴虐に民心が離反しはじめた。この機をのがさず、朝敵の汚名をすすぐため、譜代藩が同盟して朝廷に哀訴しよう。同志の藩を糾合しようではないか」  天皇の「御親征号令」を見、慶喜がいよいよ江戸城を出るという話をきいた翌日の一二日、学海は、藩重役につぎのように建議した。 「わが藩にても、むなしく坐視すべきではない。すみやかに朝廷に対したてまつり哀訴あるべきである」  この日、紀州藩邸の武内孫介の家で、諸藩藩士が集まって議論した。だが、ひところのような勇ましい意見はでなかった。  すでにその前後、単発的に、慶喜助命嘆願の哀訴状を作成する藩があった。たとえば、越後高田藩が、一月二九日付けと二月二八日付けの二度にわたって、また、遅れて三月三日には中津藩も同様の哀訴状を作っている(『復古記』巻四五)。だが、まとまった規模で嘆願運動を組織したのは、佐倉・小田原・上田藩らを中心とする四○数藩のそれであった。そして、学海はその先頭にたって奔走したのである。  二月一五日、学海は幕府目付の加藤弘蔵(のち弘之、明治の思想家)に呼ばれた。 「外様藩が同盟して朝廷に哀訴状を奉るという動きがつたえられる。譜代の藩も手をこまねいているわけにもいかない」  外様藩同盟の哀訴嘆願の真偽のほどは別にして、右の高田・中津藩以外にもそのような動きのあった事実は、『維新史料綱要』などで知ることができる。そして、そういった噂がつたえられるいま、佐倉藩をはじめ関東譜代の諸侯も連合して哀訴の挙に出るべし、というのが幕府目付の意であった。学海はもちろん、わが意もそこにあるとこたえ、さっそく実行にうつすことを約束する。翌日も加藤から重役の呼び出しがあって、かさねて哀訴の件について要請がなされた。  哀訴状に名を連ねる諸侯をつのり、その重臣らが一七日、佐倉藩邸に集合した。日記には、 [#この行2字下げ]諸侯の重臣を本邸に会して、大君の御為に哀訴すべきを議す。哀訴の書案を作る。 とあって、哀訴状の文案が成った。そして、学海が一八日にそれを清書した。その哀訴状を太政官に提出するため京都まで行かねばならないが、佐倉藩からは、江戸家老の倉次甚太夫と留守居の学海が行くこととなった。 †錦旗にさからって西上す[#「錦旗にさからって西上す」はゴシック体]  二○日、学海は倉次とともに日ヶ窪の上屋敷を出発した。この夜は戸塚に宿した。  二一日は午後から雨になった。藤沢を過ぎこの日は小田原に宿をとることになったが、きのうは浜松侯の登京の行列に会い、きょうは宇都宮侯の登京に会った。京都から下る早馬・早駕籠にもしばしば出会う。学海は、「心|頗《すこぶ》るやすからず」と日記に書きとめた。  二二日は未明の箱根越え。空は晴れたが、昨日の雨で道はぬかるんだ。関所の前でまた宇都宮侯の行列に出会ったが、そのなかに旧知の渥美恵吉を見つけ、久闊《きゆうかつ》を叙した。三島に着くころ日が暮れ、雨もまた降りだしたが、急ぐ道なので原まで強行した。すでに深夜におよんでいたので、宿をかすところがなかなか見つからなかった。  二三日は駿府に宿泊。この日、学海ははじめて東海道鎮撫使のこと、すなわち官軍下向の噂をきいた。 [#この行2字下げ]鎮撫使、諸侯の兵を引きて、あさての日、本府〔駿府〕に至るべしといふ。  二四日、藤枝の駅で戎服《えびすふく》(洋式の軍服)を着て小銃を担った薩摩・長州の兵に遭遇した。学海は、「鎮撫使の先駈《さきがけ》なるべし」と記す。日坂に着いたとき、宿場中は紀州藩の兵隊で充満していた。駅中いたるところ「御親征御用」の掛け札があり、日記に「これも鎮撫使に従ふものなりと云ふ」と記す。紀州藩がすでに藩論を勤皇に転換したことは、学海も江戸で知っている。だが、かつて幕勢回復運動の中心だった御三家紀州が、いまは新政府軍の先頭にたって東行していることに、学海は奇異な感にとらわれたにちがいない。  翌二五日、掛川を出発して袋井に至ると、ここには肥後・備前の兵隊がおおくいた。そして、天竜川を渡るとき、東海道鎮撫使一行に出会う。柳原|前光《さきみつ》・橋本|実梁《さねやな》の両鎮撫使は騎馬で、錦の直垂《ひたたれ》を着用し、白地に菊の御紋をくろくつけた旗を二流もたせていた。前後をかためるのは津藩藤堂家の兵であった。  聞くところによると、両鎮撫は、さる一月一五日に京都を出発して桑名にしばらく滞在し、名古屋におもむき、いまは駿府に向かっているということであった。護衛には浜松・吉田の両藩があたっていた。鎮撫使のうしろに一つの箱荷があって、それには「鎮撫惣督御朱印」という札がはってあった。  前述したように、藤堂藩は正月六日に幕府軍に発砲し、幕軍の敗戦を決定づけた。そのことは学海もすでに知っていたが、浜松・吉田両藩の向背《こうはい》についてはきいていない。学海は知らなかったようだが、じつは、これよりさき、前尾張藩主徳川慶勝が伊勢・三河・遠江・駿河・美濃・信濃・上野七州の諸藩に使いをやって、勤皇への転換を勧めていた。それらの藩から勤皇の証書が慶勝のもとに集まり、二二日からそれらを朝廷に奉りはじめていたのである(『維新史料綱要』)。つまり、東海道・中山道といった関東へ入る街道筋の諸藩の多くは、その藩論を勤皇に転換していたのであった。その道を朝廷の軍隊は東へ向かい、流れをさかのぼって学海らは西上していたのである。  二六日に、学海らは三河国吉田駅を通過したが、そこには東征大総督|有栖川宮熾仁《ありすがわのみやたるひと》親王の軍が陣を張っていた。「本陣に紫に菊紋付けたる幕を引き、錦旗四流、菊の御紋付くる旗四流を立てられたり」と陣内の様子を書きとめる。ここでは上京するものを厳しく詮議していて、学海らも咎められた。 「大総督の御本営に案内もなく行き過ぎんとするあやしいやつ。とどまれやッ」 「拙者は佐倉藩士にて、勅命に応じ、藩主の名代として上京するものでござる。怪しいものではござらぬ。お通しなされ」 「東のほうより上らるるは、徳川の家来ではないか。通行することまかりならぬ。異議におよばば、打ち果たすぞ。ここに立っている錦の御旗《みはた》が目には入らぬか」  ところで、この日の朝、今切《いまぎれ》の渡しを過ぎて新居《あらい》の駅で休息していたとき、掛川藩家老秋山七兵衛と名のるものがやってきて、学海に面会をもとめ、次のように申し入れた。 「わが藩は、江戸藩邸では慶喜助命嘆願の哀訴状に署名いたしたが、国元では尾張藩に勤皇の誓書を提出してその指揮下に入った。よって、哀訴状の連署からわが掛川藩の名を除いていただきたい」  差し出したのは、勤皇の誓書だけではなかった。掛川藩は、昨日、東海道先鋒総督(鎮撫使と兼任)に書を奉って、東海道先鋒への兵力を提供し、江戸攻撃の軍隊に編入されていたのである(『維新史料綱要』)。だが、そこまでは秋山も学海に告げなかったらしく、日記には書きとめていない。学海は倉次甚太夫と相談して、掛川藩の申し出を受け入れることにした。  二七日は、藤川の駅で福山藩の馬場安之助なるものに呼びとめられた。 「それがしもこの二四日に江戸をたってここまで来た。だが、総督が東征したときいたので、それがしはこれより引き返して総督を出迎えたい。貴殿は早く西上して哀訴状を奉る手続きにかかってほしい」  学海らは岡崎から早駆けで宮宿《みやのしゆく》(名古屋市熱田区)に着いた。ここより次宿桑名へ俗にいう七里の渡しであるが、すでに船の便がなかったので、余儀なくここで一宿した。  翌二八日は、しかし、朝からのはげしい風雨で船が出ないという。上流の佐屋川に迂回して、そこでようやく船を借りることができた。桑名に着いたのは正午ごろであった。桑名は、前京都所司代の松平定敬の居城である。藩主定敬は、いま慶喜とともに江戸に逃げ帰っている。国元では藩主東帰の日(一月一二日)から尾張藩などをたよって朝廷工作をしていたが、二三日に鎮撫使の進攻を待って降伏した。藩地は尾張藩の監督下に入り、藩主の弟|定教《さだのり》(万之助)は四日市の法泉寺に閉居していた(『維新史料綱要』)。  学海らは桑名から雨のなかを昼夜兼行で京に向かい、二九日早朝に水口《みなくち》に到着。この日、大津に宿をとり、今月初めに天皇元服の祝儀のために上京していた藩士井口宗兵衛に、あすの入京を知らせた。あわせて、在京の小田原藩家老大久保弥右衛門と佐野藩領|堅田《かたた》に出張していた西村茂樹に、あすの昼に京の旅宿に来会されたき旨の使いをやった。 †同盟諸藩うごかず[#「同盟諸藩うごかず」はゴシック体]  学海の一行が京都に入って旅装をといたのは、二月三○日。西村茂樹が学海らの宿舎にやってきて、協議の結果、哀訴状の太政官奉呈は三月二日、同道するのは佐倉藩家老倉次、佐野藩家老西村、そして小田原・上田・新庄・諏訪の各藩家老、というふうに決まった。  小田原藩の大久保弥右衛門はこの相談にやってこなかったので、翌三月一日、学海がその宿舎におもむいてきのうの決定をつたえた。ここまではよかったのだが、そのあと諏訪藩を訪問したあたりから、なにやら雲行きがあやしくなった。  学海は諏訪藩京都留守居の林魯兵衛に面会して、あす哀訴状を奉ることに決まったといい、太政官への同道を要請した。ところが、林は首を縦にふらない。それどころか、林の返事は次のようなものであった。 「朝廷の命令はきわめて厳しく、すでに哀訴の道は絶たれたものと存ずる。わが藩では今回の企てに加わらぬよう、それがしのほうから主人に説くことにする。だから、哀訴状の連署からわが藩主を除名してくれまいか」  これは、学海にとって予想もしないものだった。学海は、このあと同様の用件で新庄藩にも行くつもりであったが、林はそれをあらかじめ知っていたかのように言った。 「新庄藩の家老も在京であるが、おおよそは、それがしと同じ意見である。わが藩の正式な返事は明日さしあげる」 [#この行2字下げ]余は興醒めながら論ずるもやくなしとて立ちかへり、よしを倉大夫に申す。 と日記にある。日記には、新庄藩のほうに回ったとは書いていない。おそらくまっすぐ自分たちの宿舎に帰ったのであろう。  諏訪・新庄ともに、江戸城では、佐倉藩と同じ帝鑑の間詰めの譜代大名である。その二家がそろって日和《ひよ》った。とくに、諏訪藩は帝鑑の間取締だし、現藩主はかつて老中職を勤めたこともある。学海らが諏訪藩に期待するところは小さくなかったろうから、そのショックは大きい。のみならず、今後の運動に影響をおよぼす懸念もある。  哀訴状はどこまでも哀訴なのだから、反朝廷的な文言があるわけではない。また、それを朝廷に提出する行為がすなわち反朝廷を意味するものでもないし、勤皇の志と矛盾するものでもない。だが、ことを無難に切り抜けようとすれば、罪を問われている幕府に肩入れするのはあまり利口なやり方ではない。哀訴状からわが藩主の名を消しておく、これは、のちのち災いの火の粉を蒙らないための予防線のひとつである。  翌二日朝、はたして諏訪・新庄の両家から、正式に除名の申し出がきた。したがって、この日、太政官に出向いたのは、小田原藩大久保弥右衛門、上田藩掛山政右衛門、佐野藩西村茂樹、そして佐倉藩の倉次甚太夫の四藩の重役であった。もちろん、学海も従う。  巳《み》の刻(午前一○時ごろ)、太政官に伺候して、伝達所(弁事所)において中川|大炊《おおい》を介して哀訴状を奉った。弁事官参与の東園中将が、たしかに受け取った由をつたえた。『弁事局記』等の史料によれば、結局、哀訴状に名を連ねたのは、この四藩を中心とする四三藩であった。そのなかに、諏訪・新庄、および学海らの上京途中除名の申し出があった掛川藩の名は、当然、ない。 〔表3〕(巻末参照)  上京途上に藤川の駅で会った馬場安之助の伝言をもって、学海は、翌三日に福山藩邸をおとずれ、哀訴嘆願の件について協力をもとめた。ところが、ここでも、応接にでた浜野・斎藤という藩士の口からは、意外な返事がかえってきた。 「わが藩としては、助命嘆願の実効があるという保証がないうちは、協力しがたい」  またしても、消極論である。学海は、それでは貴藩の江戸藩邸での意見と相違するではないか、と喉まで出かかったが、あきらめて帰った。  哀訴状への太政官からの回答は、日記によれば、一一日にあった。それには、次のような批紙(付箋)が付されていた。 [#この行2字下げ]反状明らかにつき、御親征までも仰せ出され、関東征伐として大総督〔東征大総督熾仁親王〕進軍あひなりをり候ふにつき、本文歎願の旨趣、その筋ヘ申し出づべく候ふ事。(内閣文庫蔵『弁事局記』)  哀訴状は京都では受け取らない、いま駿府に陣している大総督に出せ、というのである。学海らは門前払いをくわされた格好になった。ちなみに、学海らとは別に提出した越後高田・中津両藩の哀訴状も、この日、まったく同じ内容の批紙が付せられて返されてきた(『復古記』巻四五)。  そこで、翌一二日、学海らの仮寓に、哀訴状に連署した諸藩の代表が集まって議論した。議題はもちろん、大総督に哀訴状を持ってゆく件についてであった。倉次甚太夫も学海も、一日もはやく駿府に出発するこころづもりで会議にのぞんだ。ところが、佐倉・小田原・上田の三藩以外は、積極的にうごこうとするものがいない。他は、学海の言をかりれば、「|只管《ひたすら》他人にたのむといふのみ」というていたらくである。のみならず、席上、上総飯野藩保科家から、わが藩は除名してほしいと発言があった。これが引き金になったものか、会議がひけてから、その夜ひそかに、磐城平藩の留守居が学海の宿舎にやってきて、除名のことを申し入れた。さらに酒井家(勝山藩)、柳沢家(黒川藩か三日市藩か)からも、除名の希望を言ってきた。学海のいだいていた危惧が現実となった。 †譜代小藩の本音[#「譜代小藩の本音」はゴシック体]  江戸で徳川家のために戮力《りくりよく》を誓いあった有志の藩が、京都に来て、櫛の歯が抜けるように、脱落していく。これはいったいなにを意味するのであろうか。おそらくは、戦争前の江戸とすでに平定後の京都とそしてそれぞれの国元との、政治状況への認識の差であろうと考えられる。たとえば、先の福山藩にしても、すでに国元では、東上途中の長州藩兵から半強制的に勤皇の誓紙を提出させられていた、という事実を知るならば、学海の期待したような回答が得られなかったのも納得できよう。  学海が出発する以前の江戸の譜代藩藩邸では、朝廷軍の勝利で戦塵の収まっている京都の空気が実感されていなかった。少数とはいえ、まだ徹底抗戦をとなえるものもいた。学海らはひたすら哀訴だから、京都朝廷をむこうにまわそうなどとするものではないが、上京後の嘆願運動の展開に、自信ないしは甘い期待があったであろう。だが、学海が到着したときの京都は、学海らの案に相違した。ここは、将軍家の膝元江戸とはちがって、王城の地であった。  さらに、運動に積極的な藩とそれに引きずられて同盟に加わった藩とでは、そのとりくみかたが噛み合わない。三月一二日の会議で除名の口火をきった飯野藩京都留守居の西池虎之助の上申書が、そのあたりを如実に言いあらわしている。それには、おおよそ次のような趣旨が記されていた。 [#ここから2字下げ] このたび江戸表で徳川氏謝罪嘆願について相談があったそうだが、江戸にては当地京都の模様も詳しくは分からないゆえ諸家の重役が上京するときいていた。わが江戸藩邸からの連絡では、この春上京した重役が万事相談のうえ不都合なく取り計らえということであった。ところが、小田原・上田・佐倉・佐野の重役が、われわれ京都詰めの諸藩になんの相談もなく、はやばやと嘆願書を太政官に提出した。それを、われわれは、あとになって聞いたのだ。よって、わが藩はてっきり除名になったものとばかり心得ていた。 ところが、一二日になって総督府に嘆願書再提出の相談があったので、席上、わが藩は今回も除いてほしいと口にしたところ、「先般の嘆願書に連署しておきながら、今度のに名が洩れるのははなはだ不都合」といわれた。そんなことはわれわれには初耳で、いささか驚いている次第である。 わが藩主弾正忠も近々上京する予定である。江戸藩邸にはしばしば、当方から使いをやって京都の事情を報告してきた。よって、江戸表からは、嘆願の儀はしばらく見合わせ、除名となるべく取り計らえと言ってきたので、今回の総督府への嘆願書では除名を申し出た。先般の哀訴嘆願書の署名は、連絡の行き違いから生じたもので、いっさいわれわれのあずかり知るところではない。(『復古記』巻四二所収) [#ここで字下げ終わり]  太政官宛ての上申書であるから、割り引いて読まなければならないが、むしろそれだけに、新政府にたいする小藩(二万石)の必死の弁解が見てとれる。嘆願運動は、一部過激派諸藩がかってに突っ走っているだけだ。かれらの口車にのせられた江戸藩邸の藩士が、ゆきがかり上同盟させられたのだ。江戸での決議はわが藩論を反映したものではなく、それをもってわが藩の意思と見られては、はなはだ迷惑、不本意きわまりない。  譜代大名とはいえ、四○藩以上ともなれば、しかも大半が一、二万石という弱小大名家のよせあつめであってみれば、いかに学海が切歯扼腕《せつしやくわん》しても、その勢いは一枚岩というわけにはいかない。  学海はまた、一三日の夜、館林藩の普賢寺《ふげんじ》武平の訪問をうけ、かれからある噂をきいた。館林藩の親戚である高徳藩主戸田大和守から入手した情報だが、といった。 「哀訴状を奉る諸侯は入京を許さず、朝敵とみなすという決定が太政官でなされたということだ。疑わしくお思いなら、戸田大和守に直接きいてくれ」  すでに日も暮れたので、あす出掛けることにして、学海はとりあえず、小田原・上田および佐野の西村に手紙を書いて使いにもたせた。  翌朝(一四日)、学海は昨夜の話を確かめるため家老の倉次と、戸田大和守に謁見した。ことの真偽をただしたところ、戸田大和守は、間違いない、と明言した。さらに、大和守は学海らに次のように忠告した。 「藩主の入京がかなわなければ、哀訴の道も立たない。ここはしばらく哀訴状奉呈の儀はやめにして、別の策を講じたほうがよいのではないか」  こうなると、哀訴状どころではない。客舎に帰り、堅田から西村茂樹も呼びよせて相談したが、西村も、 「まずいったんはとどめて、再議すべきであろう」 といった。結局、小田原・上田の両藩とも協議して、哀訴状はしばらく見合わせることとなった。次の日(一五日)、学海は上田藩の留守居とともに普賢寺武平をたずねた。 「哀訴状の儀はしばらく中止することに決まった。大和守殿には、貴殿のほうから、その心遣いに感謝していることをつたえてほしい」  学海たちは、一七日、哀訴嘆願の儀は見合わせることを太政官に届けでた(『復古記』巻四二)。 †藩主の上京と謹慎[#「藩主の上京と謹慎」はゴシック体]  とにかく、先のような次第で哀訴状問題は頓挫した。慶喜助命嘆願運動の同志にとって、もはや上京の所期の目的は消えてしまった。ところが、佐倉藩にはあらたな状況が発生した。三月一五日、江戸の佐倉藩邸から、藩主正倫公が上京の途にたったとの報がもたらされたのである。  学海の当面の任務は、東海道を上っているという藩主を迎える準備にきりかえられる。とりいそぎやらねばならないのは、藩主一行総勢約三○○名を収容するところを捜すことであった。あちこち駆けまわって、ようやく花園妙心寺の大宝院を臨時の佐倉藩京都本営と定め、学海は一九日、倉次甚太夫といっしょにこの寺を検分に行った。  慶応四年は例年になく雨の多い年であった。ひさしぶりに晴れあがった二四日、学海は清水《きよみず》に遊んだ。音羽の滝・高台寺・知恩院などを巡って、「日頃の鬱《うつ》をひら」いた。ところが夕刻、宿舎に帰ってみると、藩侯の先駆けが到着していて、思わぬ事態をつたえた。 [#この行2字下げ]君公、府中駅〔駿府〕にして総督に出会ひ給ひ、登京の遅延を咎められ給ひて、上京の上外出をゆるし給はずと仰せ下さる。  藩主正倫公が謹慎を命ぜられたというのである。これは、さる一七日、大総督府が上洛途上の正倫にその遅延を咎め、向背を問い質した。が、その態度があいまいであったため、大総督府は、上京のうえ謹慎を命じたのである。  正倫公上洛の目的は、慶喜助命嘆願に藩主みずから乗り出そうという意図であったという(杉本敏夫氏「譜代佐倉藩の解体過程」『駿台史学』第一一号)。だが、客観的にみて、これは、佐倉藩にとってたいへんまずいことであった。  助命嘆願運動の有志もボロボロと脱落してゆき、実質的には、運動は中止された。関東以西の諸藩の多くは、すでに学海が上京する二月の時点で藩論を勤皇に転換していた(前述)。いま現在、三方面から鎮撫使が進行しているが、いずれも、その鎮撫の効を順調にあげながら江戸に近づいていたのである。昨年の大政奉還後、朝廷による上京の催促に態度を保留していた諸藩藩主も、このところぞくぞくと京都に集まってきた。もちろん、これらは勤皇の志を表明するための上洛である。こんなときに、徳川家のためにひとはたらきやろうと、三○○人もの藩士を従えてやってくるのは、間抜けといえば間抜けな話ではある。  学海らも、これ以上の活動はわが藩のために不利、と判断したばかりではないか。ならば、いそぎ使いをやって、最新の判断を江戸藩邸なり国元なりに報告すべきであった。だが、日記を見るかぎり、学海の周辺にそのような動きはない。その直後に藩主上京の知らせをうけた。そこで上京の詳しい意図を、学海らは確認しておくべきであったが、どうもそれもしていないようである。他藩藩主と同様、勤皇の志を表明するための上洛と思い込んだのかもしれない。これは明らかに、佐倉藩京都部隊の状況判断の甘さというべきである。学海らもすでに京都の空気に染まっていたことになる。  もっとも、こういった事態をまねいたのは、佐倉藩だけではない。街道で官軍から、上洛の遅延を咎められたり、その態度のあいまいであることを追及されたりして、譴責《けんせき》をうける諸侯も多かった。たとえば、鳥羽伏見の戦のとき在府の老中をつとめていた淀藩主稲葉正邦も、江戸からの上京途次、三島駅で総督府の前鋒に停められ、従兵は江戸にかえして、みずからは小田原近傍の寺院に閉居(二月二九日)。入京してやはり謹慎しなければならなかった。正邦も、慶喜助命のための哀訴状を持参していたという。  学海は、その夜、ともかくも藩主のための弁疏《べんそ》の書を起草した。  藩主は二八日、大津に着いた。学海は迎えのため大津に出向いて、藩侯に拝謁した。翌日、学海は一行より先に京にもどり、太政官に藩主到着を報告した。藩主は妙心寺の本営に入り、大総督の譴をもって謹慎して罪を待った。以後、この妙心寺が仮の佐倉藩京都屋敷ということになる。  三月三○日、藩主に随伴してきた江戸家老の佐治三左衛門の宿舎に集まって、今後のことについて相談があった。 [#この行2字下げ]西村氏も至れり。総督府より、督責ありしこと解くべき機会あるよし密告せらる。  学海は、会議の内容をこれ以上くわしくは記していない。読みようによっては、「密告せらる」の主語が西村(茂樹)であるかのようにもとれるが、おそらくそうではないだろう。総督府のほうから、藩主宥免の方途がないわけではないということを、厚意で学海に教えてきたのだと思われる。 [#この行2字下げ]明日哀訴の書を中御門《なかみかど》公〔大納言、名|経之《つねゆき》〕に上《たてまつ》るべきによりて、これを余承りて浄写す。(四月三日)  太政官へ提出のための「哀訴の書」を学海が清書したという。ふたたび哀訴状の文字が日記に登場するが、ここにいう哀訴状は慶喜助命嘆願のそれでは、もちろん、ない。わが藩主正倫公|雪冤《せつえん》のための哀訴状なのであって、先日の総督府からの示唆に従ったものであろう。佐倉藩留守居依田学海のかかえる新たな問題である。哀訴状は二通つくり、一は中御門大納言に、あと一は総督府に差し出すものであり、総督府へは藩士長量平を使者にたててもたせることとなった。  翌四日、佐治三左衛門・倉次甚太夫の両家老が哀訴状をもって中御門大納言邸に参上しったところ、太政官に差し出すよう指示された。そこで、学海も同道で太政官弁事局に行った。ところが、文字に誤りがあるといわれて、いそいでとって返し、書き直して提出した。夜、書記(留守居に付けられる部下)から報告が来た。 「きょう、藩主着京のことを有栖川宮の邸に奏上させたが、使者のものに非礼があって一悶着あった。あすむこうに行って、弁解かたお願いしたい」  藩士の不始末のしりぬぐいをするのも、留守居の重要な仕事である。翌日、学海は有栖川宮邸にでかけていった。  九日、哀訴状について太政官から、「何分の御沙汰もこれあるべく候ふあひだ、夫《そ》れまで差し扣《ひか》へ罷り出づべく云々」という達しがあった。これは、裁決は太政官ではなく総督府で出す、だからそれまで待て、という意味である。総督府に向かった長量平らの帰りが待たれる。 †臨時京都留守居役[#「臨時京都留守居役」はゴシック体]  ところで、前述したように、佐倉藩は京都に藩邸がない。永田太十郎・太一郎父子が京都での情報収集にあたっていたが、倉次甚太夫と学海の上京以後は、家老倉次が責任者、学海が臨時の京都留守居役となる。  学海は、入京直後から、慶喜助命嘆願運動と並行して、江戸でと同様に、留守居の職務にはげまなければならなかった。  京都についた翌日(三月一日)、学海はさっそく、最新の京都情報を仕入れるために、肥後藩邸に小橋恒蔵(のち元雄)を、尼崎藩邸に神山衛士をたずねた。両人とも、学海が江戸勤務に就いた昨年から江戸で交際のあった人物である。神山の家には米沢藩の宮島公祥が潜んでいた。  二日は例の哀訴状を提出した日であるが、学海は別に使いをやって、家老倉次の在京中の宿舎と佐倉藩の兵力を太政官に報告した。三日には、高鍋藩留守居の坂田|莠《はぐさ》をおとずれた。坂田は、学海と天山門の同門で、江戸ではむしろ文雅をもって交わっていたが、昨年の五月から京都留守居に転じていた。坂田から大村藩士藤田小八郎・浅田進五郎らを紹介されて、ともに祇園に遊んだ。  四日は小田原藩の松隈漣如、五日は相良藩の各務《かがみ》駒助と上田藩の桜井純蔵の来訪をうけた。いずれも哀訴状に連署した大名家の留守居である。六日、小田原藩の宿舎で同藩の松隈・政木権大夫ら、および上田藩桜井らと一酌し、そのまま円山(現、東山区)にくりだし、さらに知恩院に遊んだ。その帰途、磐城平藩の野々山甚右衛門、掛川藩の秋山七兵衛、笠間藩の吉田義右衛門をたずねた。いずれも京都留守居役の面々である。  七日、太政官に出向き、佐倉藩士で幕府開成所教官に抜擢せられたものの名簿を提出した。これは、先月一一日に太政官から諸藩に発せられていた命令であった(『維新史料綱要』)。太政官に行ったついでに、中津藩が奉呈していた慶喜助命の哀訴状(前述)を閲覧した。  学海は、京都留守居として、新政府との連絡事務をこなし、在京の諸藩外交官といそがしく交わる日々であった。が、なれない土地での無理がたたったのか、八日から風邪におかされてしまった。九日に天皇の太政官行幸があったので、その儀式を拝するため病をおして出ていったが、日記の記述では途中で帰ったらしく、儀式の詳細や天皇の御様子などは永田太一郎からきいている。翌一○日は終日、床に臥していた。  学海の京都での留守居交際も、江戸とあまり変わらない。鶴字楼や万亀楼といった祇園の料亭に集まって飲食をし、あい携えて嵐山や清水にでかける。京都はすでに平穏をとりもどしているから、上京の目的であった慶喜助命運動の方策を絶たれた学海はそんな町の空気にふれて、忙しいとはいっても、精神的にはのんびりした毎日をすごす。  一日、坂田莠がやってきたので酒をだして歓待、午後、いっしょに北野天満宮にでかけた。枝垂《しだ》れ桜が満開というので平野神社まで足をのばし、北野にもどったとき、雑踏で坂田を見失った。帰宅して坂田に一書を送り、それに詩を賦した。   偶然携手偶然別  偶然に手を携へ偶然に別る   翠閣紅欄家々花  翠閣紅欄《すいかくこうらん》家々の花   一路春風羅綺市  一路春風羅綺の市   知君去酔美人家  知る君|去《ゆ》きて美人の家に酔へるを [#この行4字下げ](手を携えて遊びに行ったのも偶然なら、そこで別れてしまったのも偶然。花の紅《くれない》、柳の緑。街路には春風、きらびやかな衣装の雑踏。きみはそっと別れて妓楼に登る。分からぬでもないよ。)  そんなところに飛びこんできた知らせが、大総督府による藩侯の謹慎命令であった。家老の佐治三左衛門も随伴してきていて、以後、この佐治と倉次が学海の上司となって臨時の藩邸をとりしきることとなる。江戸で学海の助手をつとめていた八木弘二郎も供奉《ぐぶ》してきたので、ともに、佐倉藩の目下焦眉の問題、藩主宥免の嘆願のために奔走する。  四月に入って、関東の騒擾の報が、日記に多くなる。二日に館林藩の高山|藤内《とうない》がやって来て、館林侯も、上洛途上に東山道鎮撫使の詰問にあって国元に引き返したことを語った。江戸を引き払った会津藩の動き、会津処分をめぐる奥羽諸藩の動静の噂も入ってきた。 †京都での外交活動[#「京都での外交活動」はゴシック体]  四月一二日、学海は、太政官に出頭してその帰り、円山にでかけた。 [#この行2字下げ]円山例月の周旋会ありておもむく。会するものあまたあり。帰途、福知山の貢士中野斎、勝山の黒柳大六等と井筒楼にのむ。八木氏も同行たり。二更〔午後一〇時ごろ〕にして寓にかへる。 「周旋会」すなわち諸藩留守居の会合が、京都でも定期的にあったことが知れる。この日が日記の初出であり、以後、日記にこの会合の記事が出てくるのは、四月二二日、閏四月二日、一二日、二二日、五月二日、一二日、二二日、六月一二日、二二日、というふうに、毎月二・一二・二二日と決まっていたようである。情報交換がその主たる機能であり、また、会の流れで料亭にくりだすところも、江戸での留守居の集まりと同様である。学海はここで、奥羽・北陸戦線の報をきくことがあった。  七月と八月前半の寄合には出席していない。ふたたび日記にこの会の名が出てくるのは、八月二二日と九月二一日である。なお、日記には、別の日に円山での会合が六月から見えはじめるが、このことについては後述する。  学海は、ほかにもうひとつ、三樹里《みきがり》の月波楼での集会にも出る。五月七日、初めてでかけていった。 [#この行2字下げ]三樹里の月波楼に至りて集会の席に列《つら》なる。会するもの紀州の木村・大垣の柴崎等を始めとして十五、六人あり。  こちらのほうは、七の日が定例の集まりであったらしいが、学海の日記の書きぶりから見て、円山の会合にくらべてこぢんまりしたものであったろうと推測される。八月にその開催の日が八の日に変更され、九月には、学海が九の日に変えてくれるよう要求するとかんたんに受け入れられ、学海の申し入れた相手が紀州藩であった(九月一九日の記事)ところなどから、紀州藩を中心とする小規模の有志の集まりであったのだろう。  ところで、藩主ら一行が入洛して、なにかと不便をかこっていたので、佐倉藩では、京都に藩邸用の土地を購入する話がもちあがった。こういった仕事を指揮するのが、まさに留守居である。学海らは北野(現、上京区)のあたりにいい物件を見つけたのであるが、あいにく、紀州藩でもその土地に目をつけていた。二藩間で種々交渉がおこなわれたが、なかなか埒があかず、五月までもつれていた。  五月八日、佐倉藩勘定方の宅間要蔵と学海の助手赤井甚四郎が、土地問題の相談で学海のところに来た。翌日、京都で親しくなった紀州藩用人の中村広人が、この談判のために学海をおとずれた。  一○日、佐治・倉次の両家老と協議した結果、 「一邸地を争って大藩と不和を生ずるのは愚であろう。ここは譲って名誉のほうを取るにしくはない」 ということになった。そこで、学海は、赤井甚四郎といっしょに紀州藩にでかけて、佐倉藩は手をひくと回答した。紀州藩はおおいに喜び、家老や中村らが二人を饗応した。そして、紀州藩所有の藩邸向きの土地が聖護院《しようごいん》(現、左京区)にあるので、それを代替地として佐倉藩に譲ろうといってくれた。  翌日、さっそく中村広人がやってきて、きのうの約束の土地を見にゆこうといった。学海は、赤井・宅間とともに中村に案内されて聖護院に行った。そこは、紀州藩主の保養のための山荘ということで、その結構はもうしぶんなかった。この日夕方、中村を接待しようと、三樹里の月波楼に一席もうけていたが、中村は公用で来られず、同藩の後藤進士郎がかわりにやってきた。  ただ、のちこの邸地の一件がどうなったかは、よく分からない。 †浜田藩の悲劇[#「浜田藩の悲劇」はゴシック体]  閏四月一二日、学海の宿舎に浜田藩の三宅勘介がやってきた。この日の日記には、ただ来たとのみあって、用件を詳かにしないが、一七日に同藩の奥津実がやってきて、ここ数日の浜田藩の事態を、学海に語ってきかせた。  浜田藩は、すでに述べたが、佐倉藩主正倫の姉君の嫁ぎ先であり、先年の長州征伐のさいに長州藩と戦って城を失い、美作《みまさか》の鶴田《たづた》に藩主・藩士ともども逃れて謹慎していた。  奥津の言によれば、 「浜田藩では、重臣三名の切腹をもって罪を償い、朝廷にむけて藩地回復の哀願をした。朝廷はその志を善しとし、家老一名の自刃をゆるした。明日一八日の夜、鳥取・岡山藩よりの検兵使立会いで執行する」  学海はすぐに妙心寺にかけつけ、藩主に子細を報告した。聞いて、正倫公は悲傷にくれることしきりであった。  二○日、佐倉藩から浜田藩留守居の三宅勘介のもとへ内々の使者をたてて、家老の自殺謝罪の様を尋ねさせた。さる一八日夜、本国寺(現、山科区)において鳥取・岡山両藩の検兵使をむかえて、家老小関|隼人《はやと》が、年六六にして潔よく自裁した。その様は、尋常にして感服せざることなかったという。学海は、その詳細を妙心寺の本営に報告した。翌日、小関隼人の忠誠を憐み、佐倉藩主よりの回向料を、三宅のところに八木弘二郎をして届けさせた。二七日、その日、学海は風邪で寝ていたが、浜田藩は使者野島一雄なるものをもって、重臣自殺謝罪により藩主の謹慎が解け、領地も返還される旨の内意があったと知らせに来た。 †京都の空気に染まる[#「京都の空気に染まる」はゴシック体]  二月末に京都に入り、上洛の所期の目的であった慶喜公助命嘆願運動は、各藩の足並みがそろわず、成果を見ないままいつのまにか立ち消えになってしまった。  江戸では、四月四日に東海道先鋒総督らが江戸城入城、「慶喜死罪一等を宥《ゆる》され、水戸表へ退き謹慎罷りあるべき」等の朝旨がつたえられた。学海は、それを一三日に聞いたが、この決定に、学海らの京都での運動は、いっさい関与していない。勢いこんで京都にやってきたものの、政局の焦点は完全に江戸(東京)に移ってしまっており、学海らはむなしく日を過ごすだけであった。ただ、学海らの運動が大勢に影響をおよぼさなかったということは、結果からすれば、幸運だったといえよう。明治元年一二月におこなわれた奥羽北陸戦争の戦後処理に、この運動がなんら顧慮された形跡がなく(表3参照)、運動から手をひいた諏訪藩らの懸念も杞憂におわったからである。  それにかわって佐倉藩にふりかかった災難は、新政府による藩主謹慎の命である。学海たちは、こんどは藩主の宥免嘆願に走らねばならなかった。西村茂樹もすでに佐野藩の用務が終わって帰国するはずであったが、しばらく在京して本藩佐倉のために尽力することとなった(もっとも、国元でこんどは佐野藩が総督府の叱責をこうむったため、閏四月二九日に西村は急遽帰国した)。  学海は新政府当局に頻繁に足をはこび、在京の諸家の藩士らと交わる。そうこうしているうちに、学海の意識は、すっかり京都の空気に馴れてしまった。たとえば、四月二九日の日記に、関東の情勢の報に接して次のように記している。 [#この行2字下げ]会津の士等、兵を上毛・下毛に起して所在を攻掠す。|官軍《ヽヽ》、屡《しばしば》之を攻めて、敗走す。  文脈が不確かであるが、「官軍、屡之を攻めて」の「之」が会津藩兵であるから、「官軍」は新政府軍をさすことになる。江戸にいるとき、学海は、朝廷の軍隊を賊軍と呼び、幕府軍を官軍と呼んだ。京都に二ヶ月ほどいて、学海はすっかりその認識を逆転させたということになる。であるならば、翌閏四月三日の、 [#この行2字下げ]宇都宮城、一旦敵勢に奪はれたりしを、|官軍《ヽヽ》の救を得て奪回せりといふ。 も、「敵勢」は旧幕府軍がわの勢力ということになる。六月になると、小田原の戦を記すが(七日)、「小田原藩、激徒に属して函関を閉ぢたりしが、江戸に|官軍《ヽヽ》にやぶられて激徒は去り、小田原は降を|官軍《ヽヽ》に請ふといふ」という「官軍」は、明らかに薩長主体の新政府軍をさしている。  関東や東北での戦況が耳に入っても、京都に縛られている学海にとってはどうしようもなかった。が、それらを肌で、あるいは身近で感じることもあった。閏四月八日、三条の河原に、あの近藤勇の首が晒された。正月一六日に江戸城内で、学海は、京都から逃れてきて再起を期そうという近藤に会っている。近藤はその希望が幕府当局者にいれられず、甲府および下総方面に走って官軍に抵抗したが、流山で捕えられ、四月二五日に板橋の刑場で斬首された。その首が京都に送られて、三条の河原に晒されたのである。学海はこれを目撃した。閏四月一○日の日記にこのように記した。 [#この行2字下げ]新撰組近藤勇、大和と改名して|官軍《ヽヽ》を拒みし罪によりて擒殺《きんさつ》せられ、首を三条の河原にかけらる。余これをすぎ見て慨嘆にたへず。  後年、学海は、このときのことを回想して、つぎのように記す。 [#この行2字下げ]余、其の首を京師四条|磧《かはら》に見る。面色生くるが如く、余とともに談笑せし時を想ひ見る。悵然《ちようぜん》〔恨み嘆く〕として之を久しうす。(『譚海』所収「近藤勇土方歳三」) †藩主謹慎を解かれる[#「藩主謹慎を解かれる」はゴシック体]  前述したように、藩主正倫公の赦免についても、京都の太政官の裁決するところではなく、駿府の大総督府に決定権があるということであった。総督府に使者として哀訴状をもたせた長量平が、四月二四日に京都にもどってきた。量平が報告するには、 「総督府はすでに駿府を発していた。藤沢まで追って行ったが、哀訴状は突き返された」  学海は日記に、「量平、庸才にして使の任たるに堪へず」と書き、しかたがないので、京都でできるかぎりの運動をすることとした。翌月の閏四月三日、ふたたび藩主赦免の哀訴嘆願書を書いた。次の日四日の朝早くそれを中御門公の邸に持参して、よろしく太政官にとりついでもらうよう依頼した。五日の夜、太政官から召状が来て、翌日さっそく出頭すると、次のような達しがあった。 「願いの趣はもっともではあるが、この件については大総督より出た命令である。よって、かの地において決定せざるうちは、こちらとしては、いかんともしがたい」  結局は関東からの沙汰を待つだけだが、中御門家が太政官や大総督府とのなかをとりもってくれることになった。だから、佐倉藩は、中御門家にたいしては気をつかう。有栖川宮家の家臣に頼んでみたらと知恵をさずけるものもいたが、いったん中御門公に依頼したのだから中御門公からの沙汰を待つべきだとして、断っている。  閏四月中旬以降、学海のもとには国元佐倉周辺の情報が伝わってきた。  上田藩留守居が知らせてくれたところによると、真間《まま》・八幡《やわた》(いずれも今の千葉県)あたりに出没した幕府軍が、新政府軍に追われて佐倉藩内に入ってきているという。学海は、そのことを倉次・佐治の両家老に報告し、ただちに国元にこちらの兵力を向かわせるべきだと進言した。だが、二人はそれを制した。 「ことここにいたっては、兵隊を遣っても無益であろう。かつ、国元からも江戸藩邸からもなにも言ってこない。これには、それなりの理由があるのであろう。しばらく報の来るのを待っていよう」  国元から詳しい情報がとどいたのは二六日であった。さる七日に、幕府脱走兵を追って東海道先鋒副総督柳原前光の軍が佐倉に進撃してきた。そして、佐倉藩は総督から、上総大多喜城攻撃への援軍を要請された。藩主留守中の国元は総督軍に従い、大多喜に出兵した。また昨月には、佐倉藩領である出羽国柏倉の陣営にも、薩長の軍が支援をもとめてきたので、その地の警備兵を新政府軍に提供したという。  房総の諸藩は、幕府の藩屏としての譜代大名領であるから、どの藩も、追われる幕府軍からひそかに支援を求められる。そこに新政府軍が進攻してきて兵力の徴発を命ぜられるから、微妙な立場にたたされることになる。佐倉藩の国元も事情は変わらないが、しかし、藩主が京都で人質同然とあっては、新政府軍に恭順を誓うことに結論せざるをえなかったのである。  そして、ついに閏四月二八日、学海の宿舎へ江戸藩邸から使者が到着して、大総督府の決定をもたらした。国元における勤皇の実績が認められて、藩主正倫公の謹慎を解かれる旨の内容であった。学海は、いそぎ八木を妙心寺の本営に走らせ、翌日にこのことを太政官に報告した。これにて佐倉藩は、晴れておおやけの場に出ることができるようになったので、学海は、藩主の天機伺い(天皇のご機嫌うかがい)の願書を作成して提出した。  五月五日、弁事局より、家老一人出向くようにとの命があって、倉次甚太夫が出頭した。学海が付き添わねばならないところであったが、あいにくこの日は頭痛により、八木が代わって行った。用件は、藩主赦免の正式な下命であった。翌日、藩主は、その御礼のために岩倉具視・中山|忠能《ただやす》両卿のところに参上した。両卿から、あす(七日)宮中に参内して天機を伺いたてまつるべきよう伝達された。そこで、学海は、尼崎藩の神山衛士や谷田部藩邸に出向いて、参朝のさいの儀礼などを問い合わせた。  七日はその天機伺い、九日は宮中で在京の一一諸侯とともに勤皇の誓約、一三日は山陵参拝の願書提出、一四日は天顔拝謁の願書提出、一五日参内と、赦免後の藩主正倫公はいそがしく行動しなければならず、その準備のために留守居の学海もいそがしくたちはたらく。この八日から、あらたに田村右門という藩士が学海の助手としてつけられ、藩主外出のさいの御先詰めは、おもにこの田村に勤めさせている。  宮中|非蔵人口《ひくろうどくち》から出頭の命令が来て、一八日に出向くと、藩主正倫公の天顔拝謁の許しがでたので、その日限を申し出よ、と言い渡された。学海らは、二○日を希望して返事したが、おって仰せがあるから待つようにとの達しであった。結局、主上への拝謁が実現したのは二七日で、乗馬を天覧あって、花瓶・煙草袋などが下賜された。  関東の騒擾の情報もさかんに入ってくる。上野山の彰義隊《しようぎたい》討伐、小田原の戦などの報がもたらされるが、六月六日には、佐倉藩預かりの佐貫(現、富津《ふつつ》市大佐和)の陣屋が幕府脱走兵に急襲されたという知らせが入ってきた。在京の諸侯は、ここのところぞくぞくと帰国の許可を得て京都を発っていた(『維新史料綱要』)。  佐倉藩も、これよりさき五月二五日、藩主帰国の願いを軍務官に申し出た。だが、許可はなかなか下りず、学海は二七日、二九日にみずから出向いてその催促をしたが、六月四日に返された願書には「尚《なほ》在京あるべし」という付箋がついていた。二六日、学海はふたたび藩主帰国の請願書を起草した。  藩主帰国の願いは、七月に入ってかなうこととなる。その三日、非蔵人口からの呼び出しがあって参内すると、提出していた請願書に、帰国許可の付箋がはられて手渡された。  四日に、妙心寺の佐倉藩本営で、藩主帰国後のことが協議された。学海は公務人《こうむにん》(後述)として京都に残ることになった。佐治・倉次両家老から、京都での事務全般を委任され、よっぽどの大事でないかぎり、独断で処理してよいと後事を托された。  いよいよ七月八日の朝、佐倉藩主一行約三○○人は、雨のなか、京都の本営を出発した。学海は未明に妙心寺に至り、藩侯に拝謁して別れの挨拶をした。そして、見送りのため途中まで一行に従った。  藩士らは三月末に入洛して四ヶ月余(この年、閏四月あり)の京都滞在であった。当地の生活に馴染みはじめたものも多い。行列が北野の遊廓あたりを過ぎるとき、一軒の家から五、六人の女が出てきて一行を見送っていた。そのなかの、年のころ一六、七の少女が、目を真っ赤に泣きはらしながらいつまでも行列の後についてきた。さすがに学海も哀れをもよおして、なれない和歌を詠んだ。 [#この行2字下げ]まことなしと誰か言ひけんうかれ女が袖に色ます道芝の露 [#この行4字下げ](若い遊女がしんそこ惚れた男との別れに涙している。女郎に誠なしなんて誰がいったのか)  藩主一行は、上京した道とはちがってこんどは海路をとることにしたため、まず大坂に下った。帰国を許されたとき、太政官に申請して外国船を雇うことにしていたのである。ところが、大坂に着いた一行から一○日に知らせがあって、外国船が一艘もいないため、その入港まで大坂に滞在するということであった。  一行の第一陣がオランダ船に乗って大坂を発したのは一七日。翌日に学海はその知らせを受け取った。風雨のあらい日で心配したが、紀州の浦にいったん避難して、一八日に江戸にむけて出発したという。二○日に無事、江戸湾到着。第二陣もこの日に大坂を出た。 †川田甕江の京都潜入[#「川田甕江の京都潜入」はゴシック体]  慶応四年(一八六八)五月四日の日記に、次のような記事がある。 [#この行2字下げ]田毅卿《でんきけい》、姓名を改めて窃《ひそ》かに余をとへり。国事難艱なるをきゝて嘆息にたへず。 「田毅卿」は、のち明治漢文学の泰斗と称せられた川田甕江のことである。備中松山藩士で、学海とはおなじ藤森天山門下、江戸藩邸勤番どうしの深い付き合いであった。  後年、学海に「吾親友川田甕江」(『太陽』第二巻第五・六号、明治二九年)と題する追悼文があって、このときのことを回想している。  甕江は町人体に身をやつし、玉屋文作と名のって学海の宿舎にあらわれた。甕江の主君板倉勝静が、この一月まで老中として慶喜の側近で幕府軍の参謀格をつとめていて、慶喜の大坂脱出に従って東帰し、いま現在、新政府から追われる身となっている。甕江は、朝廷への藩主助命嘆願工作のため、藩命をおびて京都に潜入したことを語り、佐倉藩に援助をもとめた。日記中の「国事難艱」とはそのことをいっているのであって、身分・本名を隠して入京したのは、松山藩士は関所の通行が禁止されていたからである。  この日までの、松山藩とその藩主にふりかかった「難艱」なる事態を、かんたんにふりかえってみよう。  慶応四年一月六日、藩主勝静は、会津藩主らとともに慶喜にしたがって大坂城を脱出、幕府軍艦開陽丸で江戸に向かった。一○日、朝廷は勝静の官位を剥奪し、京都藩邸を没収、あわせて在京の松山藩士たちを放逐した。勝静は一二日に江戸着。国元では、一四日、松山藩征討の令をうけて進撃してきた岡山藩軍に城を明け渡し、藩士は全員謹慎して罪を待つこととなる。一方、大坂城に詰めていて藩主に見捨てられたかっこうの松山藩兵約一五○名は国元に向かったが、備中玉島で岡山藩によって捕捉された。家老熊田|恰《あだか》が謝罪のため切腹、のこった松山藩兵は岡山藩に預けられた。  江戸に帰っていた藩主は世子万之進(勝全《かつまた》)と家臣約五○人をつれて江戸を出、日光の近傍に閉居することとなる。幕府は一月二九日に勝静の老中職を解き、勝静は隠退して万之進に家督をゆずった。だが、四月九日に新政府軍が日光に進攻してきたので、父子は降伏して宇都宮藩に幽閉された。が、その月の一九日、大鳥圭介ひきいる幕府脱走兵が宇都宮城を襲撃して、父子を救い出した。このことをつたえる『もしほ草』三編(閏四月二九日発行)は、勝静を「朝敵」と呼んでいる。  岡山藩に預けられた国元の重臣らは、岡山藩をたよって嘆願書を朝廷に提出しようとうごきだす。内閣文庫蔵『岡山藩記』中の「松山追討始末」によれば、一月下旬に岡山藩主池田|茂政《もちまさ》名義で太政官に出された届けには、すでに板倉父子の赦免嘆願の文言が見える。二月に入っては一四日と一八日に、岡山藩留守居沢井宇兵衛より太政官に届けが出された。が、それらに付される回答はいずれも思わしいものではなかった。  藩主父子は宇都宮城を出たあといったん日光に向かったが、結局、大鳥らとともに会津に遁れることとなる。国元や江戸では藩主父子行方不明の状態で、戦死したとの噂もたてられていた(『太政官日誌』第一三、慶応四年閏四月)。閏四月、松山藩重役の連署の嘆願書、さらには松山藩領の百姓たちも連署して嘆願書を岡山藩に出した。岡山藩の斡旋で太政官弁事局に提出されたが、太政官からの回答は、勝静父子の処分は江戸の大総督に委ねられているので後命を待て、というものであった。  川田甕江は、鳥羽伏見の戦の知らせを江戸にいて聞いた。ただちに大坂に急行したが、藩主とはゆきちがいになり、残された松山藩兵とともに玉島まで行動をともにした。家老熊田切腹のあと、川田のみ国元への帰藩を許された。国元では重臣相議して、藩主の行方を探るため、京坂・江戸・東北の各方面に密使を派遣することとなった。川田もそのひとりであった。  甕江が学海のところに姿をみせるまでには、おおよそ以上のような経緯があった。  その二日後(五月六日)、学海は甕江から呼び出されて、井梅亭という料亭にでかけて行った。 [#この行2字下げ]余、田毅卿の請に応じて井梅に至れり。  日記の記述はこれだけであるが、学海の回顧談によれば、ここで、甕江から相談をもちかけられた。 「江戸にもわが藩の工作員をひそかに潜入させているのだが、先日、資金に窮してどうにも動きがとれないと言ってきた。国元としてもなんとか工面したいのだが、遠く隔たった江戸のこと、しかも、薩長軍の詮議が厳しいので、江戸と国元との交通が思うにまかせない。ついては、友達の誼《よしみ》、佐倉の江戸藩邸のほうで、とりあえず資金を用立ててくれないだろうか。返却の儀は、わが国元と京都は交通も容易なので、すみやかに実行いたす」  学海はいうまでもなく、佐倉藩重役たちも、松山藩の今回の災禍には同情的だったし、個人的にも川田をよく知っていた。さっそく江戸藩邸に使いをやって、江戸潜伏中の松山藩士の活動資金の融通を命じた。  五月二一日、甕江が学海の宿舎をおとずれ、一八日付けの太政官弁事局からの達しを知らせてきた。藩主父子のことに関し寛大な処置も期待できるはずであるから、一藩安堵して後命を待つように、という慰諭の文面であったという。これは、今月九日に岡山藩主池田信濃守の名で、松山藩主父子の流離困頓の状を訴えた、それへの回答であった。そこで、甕江はいったん江戸に下ることとなり、学海に別れを告げに来た。  六月に入って一三日、学海は松山藩の三島貞一郎からの書簡を受け取った。三島は号を中洲といい、明治になって二松学舎を興した漢学の大家である。学海とは天山門下の同窓生であり、かつて中洲が昌平黌の寮生であったときに面識があったが、このころ松山に帰って藩政に参画していた。この三島の書簡の中身は、次の日に守屋武兵衛と名のる松山藩士が金三〇〇両を持参して学海を訪れているところから、佐倉藩の手厚い情けにたいする謝礼の言であったろう。  七月一九日にふたたびその守屋武兵衛が来た。守屋のいうには、 「藩主勝静父子は、宇都宮を脱出して、会津に移ったという情報を得た。ついては、藩主を迎えに行きたいのだが、なんとかてだてが講じられないだろうか」  この守屋武兵衛、学海によれば、やはり変名で京都に潜入していたとのことであるが、松山藩がわの記録にある、松山藩減刑嘆願書を持って学海をたよって入京する森岡武太郎なる藩士であろう(山田準編・三島中洲注『山田方谷年譜』)。その後、守屋はしばしば学海をたずねたり、使いをよこしたりしている。 †その後の松山藩[#「その後の松山藩」はゴシック体]  川田甕江からは書信で、江戸での諜報活動の子細を言い送ってきた。が、成果はおもわしくなかったようである。藩主父子が奥州に無事でいることはつきとめたけれども、すでにかの地は戦乱のさなか、しかも敵軍に属しているため、思うように連絡がとれない。救い出そうにもその方策がたたない、といったことが書かれてあった。  藩主父子が敵中にあり、藩地が岡山藩管理下にある松山藩としては、藩主救出、藩封復興のための活路を摸索していた。具体的なてだてとして、まず、藩主父子に説いて朝廷への帰順をすすめるため、藩士数人を奥羽に派遣したい旨の請願を太政官に提出した。政府からは、八月二四日、岡山藩の目付を同行することを条件に許可するとの達しがあった。  それと並行してすすめていたのは、君公の血胤をもとめて継嗣とし、それによって藩の再興を朝廷に願うことであった。そこで、前藩主|勝職《かつつね》の従兄弟《いとこ》でそのころ江戸郊外小梅村に閑居していた栄二郎(二二歳)を擁立することに決まった。江戸にいた川田甕江が栄二郎を説得、ひそかに江戸を脱出して松山まで嚮導《きようどう》した。栄二郎は名を勝弼《かつすけ》と改め、継嗣として板倉家再興の請願を朝廷に奉ることとなった。  その請願書提出のため、甕江がふたたび上京してきた。請願は岡山藩を通じて、八月に政府に提出された。  だが、藩主救出作戦のほうは、はかばかしい成果をあげなかった。宇都宮脱出以後の藩主のあしどりと松山藩の動きをおってみると。  まず、藩主にしたがって宇都宮方面にいた約五○名の松山藩兵が、藩主父子の会津逃走でとり残され、東山道先鋒総督府に投降した。六月一日に江戸に護送され、ついで国元に送還された(『維新史料綱要』)。藩士たちから離れた藩主勝静は、これも元老中であった小笠原長行(唐津藩世子)とともに会津にあったが、白石城中でひらかれていた奥羽列藩同盟会議において、同盟の総括者に担がれたりして、一時、奥羽諸藩の調整役をつとめていた(佐々木克氏『戊辰戦争』)。が、政府軍の攻勢に同盟も崩壊、九月の会津落城によって敗走せざるをえなくなった。一○月一二日、おりから仙台沖に停泊していた榎本|武揚《たけあき》ひきいる艦隊に投じて、北海道にむかった。この間に藩主父子は別れ、勝全は沼津に潜んだ。  藩主の蝦夷地逃亡の報は、この年の末に国元にとどいた。そこで、藩士西郷熊三郎と平野左門が変名して松山を出発、二人は、翌明治二年一月に横浜から外国船で箱館に上陸して、ようやく藩主勝静に会うことを得た。箱館脱出をつよく説いたが、勝静はヨーロッパ逃亡の意思あることを打ち明け、それには巨額の費用の必要をかたった。西郷らはその資金調達を約束して、いったん箱館を去った。  が、そうこうしているうちに、官軍の箱館攻撃が始まり、旧幕臣の榎本武揚は、幕臣でない勝静にたいして、戦火を避けるようすすめた。四月二三日に勝静は箱館を脱出。船をのりついで五月に東京に着き、ただちに謹慎した。六月、支藩である安中藩邸に入り、この間に勝全と合流、ともに罪を待った。  藩重臣たちの各方面への請願の甲斐あって、八月一八日に下された新政府の決定は、厳刑に処せらるべきところ、死一等を減じて、安中藩において終身禁固を命ず、という内容だった。同月、松山藩は三万石を削られて再興がなった。勝静は明治五年に釈放され、以後は松叟と号して世事を絶った。 [#見出し]維新政府官吏への道 [#この行10字下げ]明治天皇鳳輦其二。東京府京橋之図。鳳輦が京橋を渡るところ。月岡芳年画。(都立中央図書館東京誌料文庫蔵) †貢士選出[#「貢士選出」はゴシック体]  慶応四年(一八六八)三月七日、学海は太政官におもむいて、「貢士《こうし》のこと」について届けを出した。この「貢士」というのは、学海らがまだ江戸にいた二月に、新政府が諸藩にむけて発した布令のことである。「王政御一新」につき「輿論《よろん》公議を執る」という名のもと、各藩から新政府の議員として「貢士」を選出して太政官に差し出す。大藩(四○万石以上)三名、中藩(一○万〜三九万石)二名、小藩(一○万石未満)一名、日限は三月末までとしていた。ただし、その締切り日までに選出して届け出ていたのは、三分の一ほどの藩にすぎなかったという(尾形裕康氏「貢士制の考察」『社会科学討究』第二巻第二号)。佐倉藩もまだ選出していなかった。七日の学海の太政官での用件は、佐倉藩での選出の進捗状況をたずねられたていどであったのだろう、哀訴状の件や藩主上京の準備にまぎれて、しばらくこの話題は日記に見えない。  佐倉藩で貢士のことが本格的に話し合われるのは、それから一月後の四月七日、藩主の居館妙心寺においてであった。 [#この行2字下げ]妙心寺の本営に至り、貢士のことを議す。貢士のこと、大垣にては参政の職を用ひて二人を出す。尼ヶ崎・福知山にても同じく壱人を出す。  佐倉藩は石高からいえば二人出さなければならないのだが、どのクラスの藩士を選べばいいかに迷っていることが、他藩とのふりあいを気にしているところからうかがえる。結局、決定をみなかったらしく、翌日、学海の代理で八木弘二郎が太政官に出頭して、貢士選出の猶予を願い出ている。  太政官から四月二五日付けで、徳川慶喜の処分や継嗣・秩禄の議題で、在京の諸侯・留守居・貢士などに下問があった(『公議所日誌』前編)。そして、二七日に太政官で会議が開かれたが、その日の学海日記には、「本藩は外出を禁ぜらるゝ為にその会に与《あづか》らず」とある。藩主謹慎中のゆえ、佐倉藩は議事には参加できなかったようである。  閏四月二九日(『公議所日誌』では晦日付け)、諸藩貢士に、三箇条の策問(兵制問題・財政問題・東征問題)が出された。それへの対策を来月五月二日までに提出せよということであった。佐倉藩は貢士を出さないままであったので、学海はそれには係わらなかったのだが、締切り前日に、丹南藩貢士片岡美仲と福知山藩貢士中野|斎《いつき》がやってきて、 「貢士は朝廷よりの徴集である。いたずらに選出を延ばすべきではない」 といって帰った。対策提出の締切り日には、上田藩の鈴木太郎がたずねてきて、その対策の文章をしめし、学海に筆削をもとめた。 †公務人となる[#「公務人となる」はゴシック体]  政府では、さらに五月二八日、諸藩に「公務人」の職を置くべきことの布令を出した(『公議所日誌』前編)。これまで公務(朝廷に関係する事務)の取扱は旧幕府時代の留守居役がおこなってきた。それでは不都合ということで、諸藩にあらたに「公務人」のポストを設けさせ、朝廷に関係することがらを取り扱わせた。そして、藩から選出された貢士をもって、この公務人にあてる。同じ布令によれば、公務人は朝廷においては政府議事機関の議員「貢士」であると同時に、「其ノ藩ニテハ国論〔藩論〕ニ代ハルベキ職分」とある。だが、「公務人ハ始終朝命ヲ奉ジ、其ノ藩論ヲ振起シ」ともあるように、政府がわが期待していたのは、諸藩の意見をすいあげるというよりも、政府の意思を諸藩に周知徹底させる機能のほうであろう。もっとも、そういった機能は留守居ももっていた。だから、この公務人制度の導入は、留守居の職掌を分離させることによって、それまでは大名家の利益実現のために存在していた職分を、中央政府の組織にとりこもうとするところにねらいがあったのではないかと考えられる。  政府は、菊亭家の邸に貢士対策所なるものを設け、政府からの諮問にたいする答申を毎月の定例日(五・一五・二五日)に提出させるようにした(『法令全書』明治元年五月二四日第四一七)。『公議所日誌』前編によれば、六月五日が租税規則に関して、一五日が郵便規則に関して、二五日に衣服の制に関して、それぞれ対策がおこなわれている。  佐倉藩では、六月二一日、この公務人に学海を任命した。 [#この行2字下げ]巳《み》の刻〔午前一○時ごろ〕、徴《めし》に応じて妙心寺の執政署に抵《いた》る。某《それがし》おして公務人の職をかぬべきよしの旨を伝へらる。  公務人は、先にもいうように、留守居の職掌のうちの公務関係にたずさわるポストであるから、職務内容じたいはそれまで留守居がこなしていたことと変わらない。違いは、留守居が大名家から自然発生的に生まれたのにたいして、公務人が政府の設置したものであるということぐらいである。だから、藩としては、その役職に人員をあらたに充てるより、仕事に慣れたそれまでの留守居に兼務させるほうがてっとりばやいし、都合もいい。佐倉藩もそのような方針で、学海を公務人に任じ、あわせて、まだ選出していなかった貢士をも兼ねさせたのである。  だから、学海は佐倉藩留守居のまま佐倉藩公務人ということになり、貢士として貢士対策所に出仕する。学海は二五日の対策日にそなえて、衣服の制度に関する案を起草した。学海にとってはじめての対策日当日、菊亭家の貢士対策所に行って苦心の建策書を提出したが、使用人らしいのが出てきて受け取っただけでおわった。いささか拍子抜けした学海は、対策所議長の坂田莠に面会して、この対策が軽んじられているのではないかと進言した。学海のこの言がきいたのか、翌月五日の対策は、「両弁事・公卿、席に出て議状を請け取らる。物々しき態なりき」というほどであった。  学海はまたこの日(六月二五日)、稲津済・中野斎、および坂田の三人に相談して、あす諸藩の公務人を円山に集めて公務人の盟約を定めようと提案した。翌二六日、 [#この行2字下げ]壱時より円山におもむく。稲津氏、先に在り。よりて公務局集会のことを論ぜしに、皆「尤のことなり」といはれたり。歓を尽して散ず。稲津・中野と井梅にのむ。 「公務局集会のこと」について、この日の日記には詳しく書いていない。が、次の対策日である七月五日の翌日、円山に集まって、「かねて約せしごとく、人々きのふの策文を携来りて示さる」とあるところから、対策日の次の日に公務人たちが集まって、各自の対策文を見せあうための集会であったことがわかる。  七月一五日の対策は休み、二五日は菊亭家にさしさわりがあって、会場が飛鳥井邸に変更(『公議所日誌』前編)。学海はこの日、腹痛でもって外出ままならず、田村をかわりに行かせ、翌日の円山会には出ていった。  だが、はやくも八月一日、毎月定例三次の対策日が廃止され、いつでも建白していいようになり、議事あるときは臨時に召喚することになった。この変更は、貢士対策の制度がおもうように機能せず、期待したほどの実効がなかったからである。以後の学海日記では「議事院」などの名でときどき会議がひらかれたようである。議長は七月、坂田莠から坂田の主君である秋月種樹に交替した。  したがって、八月五日の対策はなかった。が、翌六日の円山の会はいちおうは開かれたので、学海は行ってみた。 [#この行2字下げ]対策のことやみにしかば、月々三度会せんも煩はしとて、月々六日・廿一日の両日にさだめぬ。  定期的な対策日がなくなった以上、その翌日の集会も意味をもたなくなった。「月々六日・廿一日」に開催日を変更したとはいうが、学海日記に徴するかぎり、以後そのような寄合はひらかれてはいない。 †公議人と改称[#「公議人と改称」はゴシック体]  八月二○日、政府は、公務人の称を「公議人」と改め、あらたに「公用人」なる役職を各藩に設けさせる由の布令を出し、学海は、翌日その知らせをきいた。 [#この行2字下げ]過日仰せ出だされ候ふ公務人の儀、今般御改め相成り、公議人と相唱へ、其の職は即ち議員にして朝命を奉承し、藩情を達するを旨とす。更に公用人を相設け、従前留主居役の職務を掌《つかさ》どり候ふ様致すべき旨仰せ出でられ候ふ事。(『公議所日誌』前編)  この文面からは、「公議人」は公務人のたんなる名称の変更と考えられる。 「公用人」は、「従前留主居役の職務を掌どる」というが、すでに公議人が政府筋の事務を担当するのであるから、留守居のそのほかの職務つまり諸藩間の外交事務あるいは情報収集にあたるということであろう。「公用人」ができたことによって、制度上はじめて留守居の職能の分離が実現したといえる。ここに、江戸時代初期から存続した留守居役という、すぐれて幕藩体制的役職が消えることとなったのである。  学海は、二四日、坂田莠をたずねて、今回の改革について意見を述べた。 「公務人を変えて公議人とし、また、貢士の対策を廃止するなど、朝令暮改もいいところだ。これでは、朝廷の号令に信頼がなくなる。天下は何をもって信とするのか」  坂田はなにも答えられなかった。  これらはいずれも京都においてのことだが、公議人に名が改められる前の七月下旬に、東京(七月一七日改称)にも公務人を置くべきことの案が出た。学海は坂田莠のところに使いをやって、東京公務人のことについて問い合わせた。だが、結局、制度改革があったことにより、東京公務人の沙汰はなくなったようである。佐倉藩も、学海の東京帰還後に新人事がおこなわれるまでは、学海が京都の公議人兼公用人、東京では野村弥五右衛門が留守居役をつづけた。  九月一○日、学海は有志の公議人七人とかたらって、議事院議長の秋月侯に面謁した。日記に「事務を極論す」とあるが、おそらく、議事の制度に関することであろう。学海らの要請で、一六日、公議人全員が議事院に招集され、「議事の体裁」について議論された。学海の発言、 「選挙によって選ばれたものを議員とすべきである。多く集めることだけがいいわけではない」  最後に、外国掛判事の森金之丞(有礼《ありのり》)と鮫島誠蔵(尚信《ひさのぶ》)が、ヨーロッパ議会の制度を紹介して、それを日本に適用すべきことを論じた。結局、両人の論に決して、それに反論あるものは、三日以内に議事院に言上することとなった。政府は、秋月・森・鮫島のほかに福岡|孝弟《たかちか》・大木|喬任《たかとう》・神田|孝平《たかひら》に議事体裁取調御用を命じ、議定の山内豊信にその総裁を兼ねさせた。  さて、この八月の京都朝廷では、天皇の東京巡幸の発表と即位大礼の挙行があった。  学海は三日に東京巡幸の噂をきいた。この天皇の東京行きは、関東の民心をひきつけるための新政府の示威運動であると同時に、東京遷都の伏線でもあった。  即位礼は二七日におこなわれた。学海のきくところによれば、中国式の華美な式典はやめて、古式にのっとった質素なものとするということであった。諸藩の公議人・公用人等には、即位式跡の飾り付けの見学がゆるされていた。式典翌日の午前中にかぎられていたので、その日の朝、学海は助手の田村右門といっしょに宮中に参上した。建春門より承明門内に入って、紫宸殿の前まで行った。榊の葉をつけた紅白の旗が数本立てられ、その梢に明鏡が掛かっていた。古代の質素質朴にならったということである。ただひとつ新しい試みは、承明門の真ん中に地球地道儀をおいたことであるときいた。  そして、九月一日に、即位祝賀のため公議人の参内があった。学海も上田藩公議人鈴木太郎とかたらって宮中におもむいた。虎の間というところで、宴がもよおされ、御酒・御肴をふるまわれた。「冥加あまりあると謂はまし」と日記に記す。次の日は、藩主名代として、即位祝賀のためふたたび宮中に伺候して、太刀一ふりを献上した。 †公議人の東下[#「公議人の東下」はゴシック体]  天皇の東京行幸は、京都出発が九月二○日であった。学海はこの日、あいにく体調がすぐれず、天皇出発を見に行けなかったので、その様子を人伝てできくだけだった。  二三日には、公議人に東下命令が出た。天皇の東京行幸に従って、公議人が一国につき一人ずつ東京に下るよう達しがあり、その人員を決めるため、すべての公議人に、二五日議事院に出頭すべしと言い起こしてきた。だが、すぐに、一国一人はやめて、藩ごとに一人、つまり公議人全員の東下ということになって、出院におよばずという使いが来た。  天皇が東京に到着する前後に、公議人も東京に着いておくようにということなので、学海もそろそろ帰国の準備にかからねばならなかった。  二八日は祇園の栂亭《とがのおてい》での公議人親睦会なので、学海も行ったが、話題議論は、もっぱら自分らの東京行きのことであった。公議人がいっせいに東京に移動するということは、議事院も東京に移るということである。まだ議事の制度も定まっていないのに、東京行きなど無駄なことだ。京都でちゃんとそれを決定することにすれば、旅費の費《つい》えにもならず公議人に労苦させることはない。このことをきのう上書して太政官にもっていったが、弁事局からの回答は、「申し越しの趣はわかるが、これは政府の命令である。公議人は、ただ命令に従って、はやく東下せよ」というものであった。  公議人のなかには不満もあったが、学海には、はやく帰国したいという気持ちがある。東京行きを嫌がっているのは西国の藩士であり、いろいろと名目をつけては行かなくてもいいように仕向けているが、関東の公議人は、故郷に近くなるのを喜んでいる。結局はみんな私事から出たことなので、ことごとしく議論するのもたあいないことであった。  学海の東下(帰郷)は、一○月五日ということになった。  当日は昨夜の雨もあがった。京都詰めの永田父子や途中から上京して学海の助手をつとめていた寺本信蔵らが逢坂まで送ってきた。そこを越えるとき詠んだ歌一首、 [#この行2字下げ]いのちありてまたふる郷へ玉くしげ二たび越ゆるあふさかのせき  二月の上京のときは雨になやまされた。帰りは天候にめぐまれたうえ、東海道は天皇行幸のおかげで道路や橋が新しくなっていて、快適であった。それに、使命をおびて先をいそぐという旅でもないし、気分は上京のときとは断然違う。鈴鹿で日が暮れたが、月の風景にあわれをもよおしながら山を越えた。昼間は一面紅葉した山々を見ながら行く。桑名の益生《ますお》村では有名な万古《ばんこ》焼きの茶瓶を買い、宮駅では名古屋扇というものを買う。ほとんど観光気分の道中であった。新居駅では旅宿の主人に請われて七律を賦して贈った。  だが、行くさきで激戦の爪跡を見せられることもあった。  島田の宿駅(静岡県島田市)は駿府の一部であるが、いまは、江戸を逐われて一大名となった徳川家の所領である。宿駅のはずれにかかげられた年貢掛札の藩主署名に「家達《いえさと》」(五月相続、入封)とあるのを見て、おもわず涙をおとした。  一五日は箱根の山を越えて小田原まで行った。ここは、五月から六月にかけて、小田原藩と林昌之助(忠崇《ただたか》、請西《じようざい》藩主)ひきいる遊撃隊とのあいだで戦のあったところである。  小田原の国元では、新政府軍が進出してきたときには官軍に協力的であった。が、佐幕派林昌之助の小田原城攻めに降伏し、さらに江戸での幕府軍有利の誤報などに惑わされて新政府軍幹部を殺害して、藩内は佐幕派が一時大勢をしめた。だが、江戸から援軍にきた新政府軍によって佐幕派は一掃された。  学海は、民家の壁や松の立木に銃丸のあとを見た。小田原侯(大久保忠礼)は四万石を削られてその身は蟄居《ちつきよ》し、隣藩で親戚の荻野山中藩から養子(辰若丸、忠良)を迎えて家を継がせ、辰若丸は今月七日に小田原に入封したということを、小田原の宿舎できいた。  小田原藩は、学海らの上京の目的であった徳川慶喜減刑嘆願に、佐倉藩とともにその中心にたって運動した。帝鑑の間詰め大名で、石高も佐倉藩とほぼおなじ譜代藩である。昨年以来、佐倉藩がその微妙な立場ゆえに去就に迷ったとおなじ苦悩があったのである。  品川宿に着いたのは、一七日のもう夜に入った時刻であった。ここから藩邸までいっきに馬か駕籠で行くところであるが、ちょうど江戸から帰国する薩摩藩兵の通過したあとで、人も馬も都合がつかなかった。その日は、それで、品川に泊まり、翌朝はやく日ヶ窪の上屋敷に帰ってきた。  天皇は、これよりさき一三日に東京に到着しており、藩主正倫も天顔拝謁のために佐倉から出てきていた。学海は藩主に拝して帰着の挨拶をすませ、平野知秋のところで、藩主帰国後の京都情勢を報告した。家族は全員、佐倉に疎開していた。家具もほとんどなかったので、近所から借りてまにあわせた。  翌日、紀州藩邸に武内孫介をたずね、会津戦争の惨状をきき、戦争のむなしさを日記にしるす。 [#この行2字下げ]あはれなり。かゝる事ならましかば、戦を致して多くの人を殺さざらましを。  学海はさっそく、藩地への帰国を命ぜられた。京都の現情勢を論じて、佐倉藩の今後の方向を一定させるためである。  二二日夜、佐倉に着いた。この日は、母のいる矢谷《やがや》の家に泊まった。兄の貞幹も、学海の在京中に家老職を辞して、佐倉にこもっていた。  翌二三日朝はやく藩庁に出仕し、佐治三左衛門・倉次甚太夫・池浦直衛・熊谷左膳の重役を前にして、新政府の方針を語り、佐倉藩も人材を抜擢して新しい政府に参加すべきことなどを進言した(無窮会所蔵『明治初年詩稿』「執政に与ふるの書」)。また、藩主が提案していた徳川氏献金のことも審議した。  藩庁を退出して、妻子の疎開先である将門山《まさかどやま》の藤井氏(妻の実家)の家に行き、ひさしぶりに家族が揃って、無事を喜びあった。  二五日、藩庁に呼びだされ、一昨日の件につき国元の意見が達せられた。国元は、人材登用などは御説ごもっともと納得したが、徳川氏献金のことには乗り気でなかった。学海とは意見を異にするし、東京の藩邸との詰めも必要なので、再検討することになった。のち七千両を献上することと決まったが、学海や平野知秋らは、それでも不満で、「今一万金にもつゝまるほどならでは、御志を致させ給ふ道たゝず」という(一二月一六日)。  二七日、学海は東京藩邸に帰った。家族も学海をおって佐倉から出てきて、もとの藩邸暮らしにもどった。 †留守居役の消滅[#「留守居役の消滅」はゴシック体]  学海が京都から帰ってきた江戸はすでに「東京」と名前が変わっており、元号も「明治」であった。留守居という役職も、「公議人」「公用人」がおかれたことによって、廃止されたことになる。  東京に腰がおちついた学海には、政府議事院の議員である公議人の仕事がまっていた。奥羽越処分問題に国家的見地からの回答をもとめられたり、諸藩公議人のあいだの連絡網の調整などがされたりした。  一一月七日に、学海はあらためて藩から正式に公議人に任命された。 [#この行2字下げ]朝服して五半時〔午前九時ごろ〕、公庁に上る。公〔藩主〕、正殿に出でまして自ら仰らく、「汝を以て公議〔公議人〕とす。|大寄合《ヽヽヽ》〔|参政《ヽヽ》〕|の格式たるべし《ヽヽヽヽヽヽヽ》」となり。老職席にて歳俸三十人口、歳給三百六十金を給ふよし伝へらる。  学海は、ついに藩重役クラスにまで出世したことになる。ただ、こういうばあいに人間関係に亀裂が生じるのは、いつの時代もおなじである。日記にははっきり書いていないが、昨年から学海とコンビをくんでいた先輩留守居の野村弥五右衛門との仲が、どうもこのころからしっくりいっていない。  今回の人事で、公用人には野村が任命された。ようするに、役職が分離したのにあわせて、旧幕時代の留守居役人をそのままふりわけたのである。だが、公議人は中央政府出仕であるし、しかも藩では重役待遇であるところから、自然、公議人のほうが上位というふうに見られていたらしい。たとえば、この月の二四日の日記に、学海はこう書く。 [#この行2字下げ]野村氏、公用人たるを以て余が下たるを恥ぢ、余もまた力をのぶる能はざるをよろこばず。  ここには明らかに、公用人は公議人の下、という認識がある。学海は後年(明治四年一二月二五日)、佐倉に退隠している野村をたずねているが、そこで野村のことを「余が属官たりし」と記している。野村が面とむかって学海に不服を口にしたかどうかは分からないが、学海の心に、先輩の野村への遠慮があるのは、確かであろう。以後、職務が別れたということもあろうが、学海の日記に野村の名前がきゅうに少なくなる。  ところで、京都でおこなわれていた公議人親睦会が東京でも再開された。まず一一月九日、紀州藩の主催で両国中村楼で公議人の大会がひらかれた。「四方《よも》の士来るもの凡そ百有余人、歌妓数十名、豪快を尽す」と学海は記している。毎月六日・二一日が定例の会日と決まったが、学海日記には、翌明治二年一月二一日を最後にこの会の記事はない。  学海がほかに出入りしたのは、近隣の藩邸の公議人をかたらった、売茶亭での親睦会である。一○日に第一回の集まりがあった。この日の出席者は一二人、以後毎月三日と二三日をその集会日と定め、こちらはコンスタントに続いているようであった。  また、明治元年中には、学海は酔月楼での定例集会にも足をはこんでいる。翌二年の二月からは房総三国の公議人が、やはり酔月楼に集まって定期的な親睦の会を始めた。  それらの実態はよくわからないが、旧幕時代の留守居組合の寄合にかわるものと考えていいだろう。高級料亭で、親睦を兼ねた情報交換の場として機能したらしいことが、日記からうかがえる。費用はおそらく藩庫から支出されていたであろう。こうなると、多くがかつて留守居役人だった公議人にとって、ほとんどその意識を改革することはむつかしい。留守居組合のときのような常軌を逸した騒ぎは、すくなくとも学海の周辺にはまだおこっていないが、早晩、世の譏《そし》りをうける事態にいたるだろう。  これは翌年のことになるが、公議人を議員として構成する公議所は、二年三月に開会された。だが、公議所閉鎖の議がはやくも六月になって政府部内で検討されている。このとき、政府の意をうけて公議人幹事らで話しあった結果、 「公議人が放蕩におぼれて世間の批判にあっている。すみやかに高級料亭での公費をつかった集会を禁止すべきである。さもなければ、公議所が廃止のうきめにあうだろう」 ということになった。よって、以後、すくなくとも学海の関係していた売茶亭・酔月楼の集会は、とりやめることとなった。 †東京遷都は既定[#「東京遷都は既定」はゴシック体]  一二月四日午前中、紀州藩の呼びかけで、東京城で公議人会議がひらかれた。学海は体調がすぐれなかったので、島田謙介にかわって行ってもらった。島田の報告では、つぎのような提案がなされたという。まず、一藩で公議人を三名えらび、一人を京都に、一人を東京に、あと一人は国元において、政府の意思を一貫させるべきこと。そして、各藩に議事機関をもうけて議員をおき、公議人がその長となること。  学海は、それに異議ないことを、紀州藩につたえさせた。相良藩(田沼侯)・大垣藩(戸田侯)の公議人も同意ということであった。  だが、維新政府のほうは、すでに公議人による議会開設の方針をかためていた。六日に政府は「公議所」開設の達しを出し、学海は翌日その知らせをきいた。それによれば、公議所を旧姫路藩邸に設置し、来春をもって開会することとする。よって、公議人はことしいっぱいは休暇、来春正月遅滞なく東京に集合すべし、ということである。また、天皇の京都|還御《かんぎよ》につき、一三州の諸藩藩主に帰国命令が出ていたので(一二月一日)、佐倉藩主も帰藩することとなった。天皇の東京発はこの月八日であった。  一○日、公議人の帰国にさきだってかれらを東京城に集めて、議事体裁取調総裁の山内豊信の布告があった。学海はこの日も体調がおもわしくなかったので、島田謙介にかわって行かせた。東京城大広間に総裁山内土佐中納言が出座し、議長秋月侯が侍座して三ヶ条の仰せ事があった。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、公議人は来春をもって東京に来会すべし。議事所は東京に一ヶ所と定めること。 一、公議所法則案を渡すによって、不審の筋は書き加えて来春持参すること。 一、来春の来会まで議員の互選によって六名の「名代」〔幹事〕を出すこと。 [#ここで字下げ終わり]  この日さっそく、第三条の「名代」の選挙がおこなわれ、伊達五郎(紀州)・稲津済(飫肥)・雨森謙三郎(松江)・新野古拙(未詳)・今井図書(西尾)・有竹衛門(大垣新田)が選ばれた。  第一条に、議事機関(のち「公議所」という)を東京一ヶ所に限るとあるように、紀州藩呼びかけの公議人三人説はなくなった。ことはそれだけでなく、これは東京が首都となることを意味する。九月に先の議事体裁取調所の設置が決まったとき、それを東京においたことも、この問題とかかわっているのではないか。  佐倉藩主の帰国の日(一三日)の学海日記に、 [#この行2字下げ]我が公、主上還幸ありて|再幸《ヽヽ》まで御暇を玉はらせ給ひ、此の日東京を発※[#「車+ヽ+刀」、unicode8ed4]し給ふ。 と書きとめたように、すでに学海らのあいだでも、天皇の京都還御は期限付きであること、近いうちにふたたび東京に行幸のあること、すなわち遷都挙行は既定のこととして認識されていたようである。  一三日夜、先日選挙でえらばれた公議人幹事の名で、行政官の達しがつたえられた。 [#ここから1字下げ、折り返して2字下げ] 一、「貢士」制度以来の議員数つまり大・中・小藩によって定められていた議員の数を一藩一人とすること。 一、東京での開会は、来春二月一五日より。〔延期されて三月七日開会〕 一、公議人は、藩の執政・参政をもってこれに充てること。 [#ここで字下げ終わり]  二三日は本年最後の売茶亭の集会日であった。だが、公議人はほとんど帰国していたので、来会したのは、学海と尼崎藩の服部清三郎だけだった。服部は南郭《なんかく》先生の後裔であるという。学海は、この日はじめて服部としたしく語りあった。藩政改革のことや紙幣のことを議論したが、「頗《すこぶ》る見解ある人なりき」と学海は評した。 †長い一年の終わり[#「長い一年の終わり」はゴシック体] [#この行2字下げ]去年は世の中おだやかならずして、このとしの正月三日は伏見の戦なりき。「ことしは天下一統に帰してやゝおだやかなり」と人もいふものから、いかにあるべき。建武の政も、北条氏を滅するはやすくして足利を討ずることかたし。成敗興亡はあらかじめ謀りがたきことなりかし。  人は、王政復古の名のもと天下統一されたというが、はたしてどうであろう。「建武の政〔天皇親政〕」も「北条氏〔徳川幕府〕」を滅ぼすのは容易だったが、「足利〔薩摩長州〕」を討つことは困難だった。慶応四年(明治元年)の日記最後のこの記事は、徳川譜代の陪臣の思いをこめたアイロニーであるとともに、維新政府の行く末を予言したものといってもいいだろう。  こうして、日本近代史上おそらくもっとも長い一年が暮れていった。学海にとっても、生涯でもっとも長い一年であっただろう。 [#改ページ] [#見出し]『学海日録』刊行始末     ──あとがきにかえて── †学海遺著・旧蔵書の行方[#「学海遺著・旧蔵書の行方」はゴシック体]  学海の旧蔵書の一部は、麻布飯倉の徳川侯爵家(旧紀州藩)の南葵《なんき》文庫に入った。この文庫は、明治の末から私立図書館として一般にも公開されていたが、大正一二年の大震災で壊滅した東京大学図書館復興のため、震災の翌年に同図書館に寄贈された。なかに、中国好色小説の代表作『金瓶梅《きんぺいばい》』の学海旧蔵書なること明白な一本があり(『東京大学総合図書館の漢籍とその旧蔵者たち』)、この本のことを、かの文豪森鴎外が、自伝的作品「ヰタ・セクスアリス」に書きとめている。  主人公の金井|湛《しづか》君(鴎外の分身)は、一五歳のとき、父親に頼んで、向島に住む文淵《ぶんえん》先生という漢学者のところへ漢文を直してもらいに行くことになった。この文淵先生のモデルが学海である。書生に案内されていった書斎で、持っていった漢文に、先生はかたはしから朱筆を入れて直してゆく。そして、ある日、次のようなことがあった。 [#この行2字下げ]先生の机の下から唐本が覗いてゐるのを見ると、金瓶梅であつた。僕は馬琴の金瓶梅しか読んだことはないが、唐本の金瓶梅が大いに違つてゐるといふことを知つてゐた。そして先生なかなか油断がならないと思つた。  つまり、この文淵先生の机の下からのぞいていたとおぼしき本が、東京大学図書館現存本にちがいない。  そのほか、成田図書館にも依田学海文庫としてその旧蔵書が入っているが、質量ともに充実した学海遺著・旧蔵書は、なんといっても、東京都町田市の無窮会図書館に所蔵されているそれである。刊行された学海著述のほかに、膨大な量の漢詩・漢文の自筆草稿類および未刊の随筆類などが、学海の息|美狭古《みさご》氏を通じて寄贈されている。  本書で紹介した学海の日記『学海日録』も、この学海遺著のうちにある。安政三年から明治三四年までの四五年間にわたって記されたこの日記は、明治の文学・社会・風俗の好個の資料として、さらには絶好の読み物として、一部の研究者のあいだでは、たかく評価されていた。ただ、未活字だったため、ながくその利用に不便をかこたれていた。  だが、最近、まったく思いもかけない資料が、思いもかけないところから、思いもかけない人(といったら失礼になろうが)によって発見された。思いもかけないという点では、『学海日録』以上の逸品と称しうるが、この思いもかけない資料の発見と公刊が呼び水となって、『学海日録』の活字化が実現された。 †妾宅日記の発見[#「妾宅日記の発見」はゴシック体]  昭和五八年三月から一年間、九州大学名誉教授の今井源衛氏は、ソウルの韓国外国語大学校客員教授として滞韓していた。氏は、講義のあいまをぬって、国立中央図書館などに現蔵する朝鮮総督府や京城帝国大学の旧蔵本の調査にでかけていた。そこで偶然手にしたのが、この資料であった。  和綴五冊の写本で、表紙には墨でうちつけに、「墨水別墅雑録」あるいは「墨水雑録」と標題されていた。第一冊目が欠けているらしかったが、現存する五冊の内容は、明治一六年九月から三二年一二月にかけての日記であった。しかも、全文が漢文で、なかに漢詩もまじっている。標題にある「別墅《べつしよ》」とは別荘のこと。すなわち、墨田川畔の別荘での閑雅な生活が漢文で綴られているのである。  この『墨水別墅雑録』の作者が、どうやら明治の文人依田学海であるらしい。だが、今井氏は平安文学専攻であるし、しかも参照文献に乏しい海外ということで、何人かの近代文学研究者に手紙で問い合わせた。学海にこれこれの漢文日記があったことを知っているか、と。とはいっても、学海をよく知る人といえば、森銑三・関良一・越智治雄・前田愛といった面々だが、当時いずれも鬼籍に入っていて、近代文学史でもひくく評価されがちの学海の、とくに書誌的な詳細を知っているというような研究者はいなかった。  伝記を参看すれば、学海は明治八年から一四年まで、墨田川に臨む向島須崎村(現、墨田区)に居をかまえていた。鴎外が通っていたのは、この家である。一四年六月に四ツ谷塩町に転居、さらに一六年六月に神田小川町へ引っ越したから、『墨水別墅雑録』の伝存分の執筆期間は、すなわち学海の小川町時代にあたる。  それが分かって『学海日録』を読んでみると、なるほど、学海ら家族が四ツ谷に移ったとき、向島の家を処分したわけではなかった。人手にわたすのが惜しく、かつて世話になったことのある祖山という老尼に、旧宅の管理を依頼している。しかも、庭の樹木や石などもそのままにして損なわないよう頼んでいるのである。学海はそこを「柳蔭精廬《りゆういんせいろ》」と名づけた。  以後の『学海日録』にはしばしば「墨水に至る」「墨水より帰る」という文字が出てくる。そして、学海が墨水に滞在して『学海日録』が空白になる期間は、『墨水別墅雑録』によって多く埋めることができるのである。  つまり、学海は、本宅と別荘とで別々の日記を記していたのであった。  墨田川畔は、徳川の時代以来、文人墨客の愛した土地である。学海もここでは、市中の喧騒をのがれてしばしの風雅の生活を送る。『墨水別墅雑録』には、そんな文人学海の精神生活が綴られている。  さらに興味ぶかいことに、この別宅日記には瑞香《みづか》と名のる女性があらわれ、どうやら別荘の住人であるらしい。この女性は、『学海日録』にもしばしばその名が見られ、明治一八年の学海の関西方面の旅行にも同行しているのだが、本宅日記からうかがって、いまひとつ素姓のはっきりしない存在であった。が、瑞香なる女性が別荘の女主人である事実から、これは学海の妾、墨堤の家は学海が妾を囲うためのものであることが判明した。  学海にとってこの家は、若い愛人瑞香との生活の場でもあったのだ。別荘を訪れる友人の話相手をさせ、ときには漢詩の手ほどきまでする学海の姿はほほえましい。だが、女が囲いものゆえの嫉妬心をおこしたり、ある時期からひどくなるヒステリーの発作にみまわれたりすると、学海はうろたえ、必死になって女の機嫌をとる。たまらず癇癪をおこして罵ることもあった。女もまけずにやりかえす。そんな男女の愛憎うずまく生活がこの日記のなかには展開している。  ところで、日記を漢文で書いたということに関して、妾に読まれないようにするためだろうと推測した書評子がいた。だが、先ほどいったように、この女は学海から漢詩漢文を教授され、それなりにこなして学海を喜ばせている。女が漢文の日記を読めなかったはずはなく、ひょっとしたら、学海はすすんで女に読ませていたかもしれない。  漢文で日記を書くことは、あの鴎外の例(『航西日記』など)をもちだすまでもなく、この時代にさして特殊なことではない。ましてや、学海は漢学者である。漢文日記は、学海にとって、俗世界から離れた風雅の地でつくる文学作品であったのだ。そのことは、今井氏の報告されたように、おびただしい推敲跡のあることからも裏付けられる。  ついでにいえば、『学海日録』も、その初めのほうは漢文で書かれている。書きはじめたころの学海は、この日記をやはり、作品として意識していたと思われる。それがいつのまにか俗文になって、当初のもくろみが挫折したのである。『墨水別墅雑録』執筆の動機は、おそらく、そのときからの延長線上にあるものと考えてよかろう。 †本宅日記とその研究会[#「本宅日記とその研究会」はゴシック体]  今井氏の専攻は平安朝文学だから、明治の一文人の日記に興味をもったのは、ちょっとした好奇心からに相違ない。だが、この好奇心が、知られざる近代文学史の発掘となった。さらに、これまで価値の高さのみ喧伝されながら、浩瀚《こうかん》さと難読ゆえにだれもが手をつけられなかった『学海日録』の刊行をみることとなり、かててくわえて、この日記が、資料的価値だけでなく、その面白さにおいて近代日記文学の横綱級との評価をも得るにいたったのである。  氏は『墨水別墅雑録』全冊の写真をたずさえて帰国し、本格的にその解読にとりかかった。そして、悪戦苦闘のすえ、六二年四月、出版にまでこぎつけた。  妾宅日記の公刊は、当然、本宅日記である『学海日録』刊行の要求をおこさせる。書き続けられた期間、分量からいって、妾宅日記の比ではない。資料的価値は関良一氏や越智治雄氏によって、内容の面白さは森銑三氏らによって、はやくから注目されていた。学界の共有財産としてその活字化は、一部の研究者のあいだでながく渇望されていたし、本来、妾宅日記よりも先に刊行されねばならない性質のものである。  それが容易になされなかったのは、一つには、先にもいったように、その分量ゆえである。原本四四冊にのぼる厖大なこの日記、今日活字化されたものを見るに、四六判、一冊平均四○○ページで全一一冊。くわえて、甚だしい崩し字、虫眼鏡をもってしても読みづらい細字、気紛れな誤字・脱字・宛て字、処々に頻出する漢詩や漢文など、その難読ぶりには超の字がつく。これは、とうてい研究者一個人の手におえるものではない。  しかし、このくわだては、妾宅日記が世にでた今をおいてはない、この機をのがせば、おそらく今後二度と陽の目をみないであろう、妾宅日記解読のときの経験を生かして、人数を頼りにやればなんとか成し遂げられるだろう。とは、そのころすっかり学海研究者になりきっていた今井源衛氏の使命感である。さっそく、市川任三・松崎仁・中野三敏の三氏に声をかけ、この四氏が兵隊を召集して、総勢二四名のメンバーで「学海日録研究会」が組織された。  研究会は、メンバーの居住地および専門分野などを考慮して四グループに分かれ、いっせいに、まさに人海戦術でもって判読作業が始まった。私が属したのは、松崎氏をキャップとするグループで、渡辺憲司・法月敏彦・鹿倉秀典・宮崎修多の諸氏といっしょに、各自の予習してきた担当箇所の読み合わせをおこなう。この作業が、月一回のペース(一時期、毎週というときもあった)ですすめられた。手もとのメモでは、国文学研究資料館勤務(当時)の宮崎氏の研究室で顔合わせをしたのが昭和六三年八月、のちに場所を松崎氏の横浜のお宅に移した。研究会の打ち上げが平成四年三月であった。  私にわりあてられた担当は、文久三年から明治二年までの期間、原本でいえば、第八冊から第一二冊までであった。この時期の学海といえば、本書にも述べたように、佐倉藩の郡代官、江戸留守居、そして新政府出仕の議員であって、自然、日記もその方面の記事がだんぜん多い。私がそれらのことに詳しかったわけではなく、ただこの期間の日記の文字に写真では判読しづらいところがあったため、原本にあたる便のいいところに住んでいる私(当時、東京都東久留米市在住)におはちがまわってきたというだけのことであった。だが、米粒のような文字と格闘し、内容確認のために国文学以外の文献をひっくりかえすことは勉強になったし、また楽しくもあった。机のまわりには、いつのまにか幕末維新関係の書物が積まれるようになった。  日録の刊行後、研究会メンバーだった渡辺・法月氏と共著で出した『江戸のノンフィクション』に、明治元年の日記をもとにした一篇を書いたり、日本近世文学会や佐倉市民講座などで発表の機会があったりして、近代文学史登場以前の学海について書いてみたいと思うようになった。そんなことをなにかのおりに笠谷和比古氏に話したところ、氏もつよく勧めてくれ、ちくま新書編集の山本克俊氏を紹介されたのである。 †敗者の維新史[#「敗者の維新史」はゴシック体]  私が本書で実現したいと願ったのは、緒言にもいったように、明治の一知識人のかくされた青春を描いてみるということであった。学海は、本書にも顔をだした西村茂樹や川田甕江・加藤弘之、あるいは成島柳北・大槻文彦といった人たちと同世代である。かれらは維新の混乱期において、幕臣であったり、徳川譜代の大名家の家臣であったり、また薩長軍を敵とした藩の藩士であったりした。擾乱《じようらん》の時代を生き抜いたかれらは、新時代のあたらしい知識の担い手として日本の近代化に貢献した。とはいえ、幕府瓦解をその目で見たという体験は、かれらの生涯において、また残した業績において、それぞれに大きな意味をもっていただろう。『学海日録』はまさに敗者の維新史を経験した一知識人の、しかも情報の最前線にいた留守居役の生々しい日々の記録である。  ところで、江戸留守居役人ののこした日記として有名なのに、長州萩藩の福間彦右衛門の『公儀所日乗』がある。山本博文氏が『江戸お留守居役の日記』で紹介し、あわせて「留守居」というものを読書界に知らしめた。私も、本書執筆にあたって氏の著述は意識せざるをえなかったし、このたび読み直して示唆教示をうけるところは多大であった。  福間彦右衛門は幕初期の、依田学海は幕末の留守居であり、一方は外様大藩の、他方は徳川譜代藩の留守居である。また一方は二○年の長きにわたって勤めあげ、他方は就任わずか一年後に留守居職そのものの消滅に遭遇した。  福間の日記は、留守居の業務日誌である。外交処理を記録してそれを先例とし、将来のための備忘とすることを本来の目的とする。したがって、仕事の内容に関して記述は詳細をきわめ、ために、留守居の職務遂行の手続き・経緯・過程、さらには掛け引き等が、まさに手にとるように分かる。対して、学海のそれは、書きつづけられた四五年間のうちの、留守居だったのはわずかの期間、しかも個人的な日常生活の記録である。書きつづられるのは留守居の職務記録だけではない。その職務内容についても、むしろ、おおくは書かれず、留守居の嘆かわしい実態への憤懣が書きつらねられていることのほうが多い。  おなじ留守居の日記ではあるが、あらゆる点でこの両者は対照的である。本書でもできうるかぎりその対照を際立たせることに、ひそかに意をもちいた。 †最後に[#「最後に」はゴシック体]  本書をなすにあたっては、多くの方々のお世話になった。なによりも、学海日録研究会での解読作業において種々ご指導をたまわった今井・松崎・市川・中野の諸氏、それに前記解読グループをはじめとする研究会のメンバーにたいしてお礼申し上げなければならない。索引チーム(飯倉洋一・松本常彦・久保田啓一・宮崎修多・白石)による二度にわたる神田合宿での放談も、楽しく有益であった。また、無窮会図書館の國廣壽氏には、研究会のころから資料閲覧に格別の便宜をはかっていただいたし、佐倉の石井豊・内田儀久両氏には図版資料の件でご迷惑をおかけした。  ほかにもご教示等たまわった方も多い。煩をいとって省略させていただく無礼をお許し願いたいが、最後に、飯泉平伍氏について一言させていただきたい。『学海日録』編集担当だった氏は、企画段階から積極的にことにあたられた。私たちの無理な注文に応じながらも、原稿から校正まで厳しく叱咤され、いささかの遅滞もなく、別巻併せて全一二冊の完結まで私たちを引っ張っていかれた。その後の『芭蕉全図譜』にも先頭にたって専念されたという噂をきいていたから、昨年二月の突然の訃報には、驚きを禁じえなかった。本書成ればまず氏に報告すべきところ、それもかなわぬこととなってしまった。ご冥福を祈り申し上げる次第である。 [#この行2字下げ]平成八年の風薫る日、鴾岫書屋にて[#地付き]著 者  [#改ページ] 表1 新聞会集会日[#「表1 新聞会集会日」はゴシック体]  慶応三年  一月六日  一月一六日  一月二一日        二月一日  二月一一日  二月二一日        三月一日  三月一一日              四月一一日        五月一日  五月一一日  五月二一日        六月一日  六月一一日  六月二二日        七月三日  七月一一日  七月二一日        八月二日  八月一○日  八月二一日        九月二日  九月一○日  九月二一日       一○月二日 一○月一○日                    一一月二一日       一二月二日 一二月一○日 一二月二一日  慶応四年        一月一二日 (明治元年)             一一月二七日  明治二年  一月七日 [#改ページ] 表2 紀州藩邸会議回答[#「表2 紀州藩邸会議回答」はゴシック体]   日付     名義 [#ここから改行天付き、折り返して8字下げ] 一一月 六日  渡辺丹後守使者山内格太郎(伯太藩、譜代、菊) 一一月 六日  大久保出雲守(荻野山中藩、譜代、菊) 一一月 六日  土井淡路守家来津田新十郎・山中本右衛門(刈谷藩、譜代、雁) 一一月 九日  安部摂津守家来織田太郎兵衛(岡部藩、譜代、菊) 一一月一二日  牧野遠江守家来太田宇忠太・稲垣左織・牧野主馬(小諸藩、譜代、雁) 一一月     稲垣若狭守家来粥川升・森直記(山上藩、譜代、菊) 一一月     片桐主膳正(小泉藩、外様、柳)・堀内蔵頭(須坂藩、外様、柳)・九鬼長門守(三田藩、外様、柳) 未詳      徳川慶篤(水戸藩、三家、大廊下) 未詳      松平下総守家来山田求馬(忍藩、親藩、溜) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 表3 哀訴状に連署した藩[#「表3 哀訴状に連署した藩」はゴシック体] 藩名     家名  国     石高 詰所 維新後処分 [#ここから改行天付き、折り返して23字下げ] 小田原    大久保 相模 譜代 11.3 帝鑑 佐倉     堀田  下総 譜代 11  帝鑑 上田     松平  信濃 譜代  5.8 帝鑑 村上(本庄) 内藤  越後 譜代  5  帝鑑 沼田     土岐  上野 譜代  3.5 帝鑑 壬生     鳥居  下野 譜代  3.5 帝鑑 松山     酒井  出羽 譜代  2.5 帝鑑 明治 1.12.07 減封、隠居 泉      本多  陸奥 譜代  2  帝鑑 明治 1.12.07 減封、隠居 飯野     保科  上総 譜代  2  帝鑑 結城     水野  下総 譜代  1.8 帝鑑 明治 1.12.07 隠居、同 27 減封 佐野     堀田  下野 譜代  1.6 帝鑑 湯長谷    内藤  陸奥 譜代  1.5 帝鑑 明治 1.12.07 減封、隠居 黒川     柳沢  越後 譜代  1  帝鑑 三日市    柳沢  越後 譜代  1  帝鑑 棚倉     阿部  陸奥 譜代 10  雁  明治 1.12.07 隠居 土浦     土屋  常陸 譜代  9.5 雁 古河     土井  下総 譜代  8  雁 館林     秋元  上野 譜代  6  雁 関宿     久世  下総 譜代  5.8 雁  明治 1.12.07 減封、隠居 山形     水野  出羽 譜代  5  雁 磐城平(平) 安藤  陸奥 譜代  4  雁 久留里    黒田  上総 譜代  3  雁 福島     板倉  陸奥 譜代  3  雁  明治 1.12.07 減封、隠居 岩槻     大岡  武蔵 譜代  2.3 雁 鶴牧     水野  上総 譜代  1.5 雁 伊勢崎    酒井  上野 譜代  2  菊 田野口(竜岡)大給  信濃 譜代  1.6 菊 村田     内藤  信濃 譜代  1.5 菊 牛久     山口  常陸 譜代  1.5 菊 勝山     酒井  安房 譜代  1.5 菊 高岡     井上  下総 譜代  1.3 菊 一宮     加納  上総 譜代  1.3 菊 荻野山中   大久保 相模 譜代  1.3 菊 金沢     米倉  武蔵 譜代  1.2 菊 多古     松平  下総 譜代  1.2 菊 長瀞     米津  出羽 譜代  1.1 菊 下妻     井上  常陸 譜代  1  菊 館山     稲葉  安房 譜代  1  菊 小見川    内田  下総 譜代  1  菊 小島(滝脇) 松平  駿河 譜代  1  菊  明治 1.7.13 上総金崎へ転封 吹上     有馬  下野 譜代  1  菊 相良     田沼  遠江 譜代  1  菊  明治 1.9.21 上総小久保へ転封 飯田     堀   信濃 外様  1.5 柳    哀訴状連署から脱退した藩[#「哀訴状連署から脱退した藩」はゴシック体] 新庄     戸沢  出羽 譜代  6.8 帝鑑 諏訪(高島) 諏訪  信濃 譜代  3.2 帝鑑 掛川     太田  遠江 譜代  5  雁  明治 1.9.21 上総柴山へ転封 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 依田学海略年譜(年齢は数え、明治五年までは月日は旧暦) 天保四年(一八三三) 一歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 二四日、佐倉藩士の次男として江戸八丁堀に生まれる。 天保九年(一八三八) 六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]    父貞剛が没す。 嘉永五年(一八五二)二〇歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一○月 藤森天山に入門する。このころより幕臣駒井甲斐守邸に寄寓する。 安政三年(一八五六)二四歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 二月 日記『学海日録』をつけ始める。 安政四年(一八五七)二五歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 一月 藤森天山とともに京都に遊ぶ。 安政五年(一八五八)二六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 日米修好通商条約調印。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 九月 安政の大獄始まる。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一二月 佐倉藩中小姓となり、藩邸内の温故堂勤番に補せらる。 文久三年(一八六三)三一歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 四月 郡代官として佐倉に赴任する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]    攘夷熱猖獗をきわめる。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 八月 八月一八日の政変おこる。 元治元年(一八六四)三二歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]   埼玉・横見両郡の郷兵長を兼任する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 八月 第一次長州征伐。下関戦争。 慶応二年(一八六六)三三歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 一月 薩長同盟成立する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一○月 江戸藩邸勤務に転ずる。 慶応三年(一八六七)三五歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 二月 江戸留守居役に就任する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一○月 大政奉還上表。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一二月 王政復古の大号令。 慶応四年(一八六八)三六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 一月 鳥羽伏見の戦おこる(戊辰戦争の始まり)。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 二月 前将軍慶喜の助命嘆願のため上京する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 四月 江戸城開城する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 公務人(のち公議人と改称)となる。 (明治元年) [#10字下げ、折り返して14字下げ] 九月 八日、明治と改元。 明治二年(一八六九)三七歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 三月 公議所開設される。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 三月 東京遷都。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 版籍奉還。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 佐倉藩大参事に就任する。 明治四年(一八七一)三九歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 七月 廃藩置県により佐倉に帰って旧藩の諸務を整理する。 明治五年(一八七二)四〇歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一○月 東京会議所の書記官に就任する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 九日、改暦の詔書(旧暦明治五年一二月三日を六年一月一日とする。次項以下新暦)。 明治六年(一八七三)四一歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 四月 日本橋北島町に居を構える。 明治七年(一八七四)四二歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 郵便報知新聞社に入社する。 明治八年(一八七五)四三歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 四月 向島須崎村に転居する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 第一回地方官会議、太政官出仕書記官に任ぜられる。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 八月 太政官修史局三等修撰に補せられる。 明治一一年(一八七八)四六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 三月 第二回地方官会議、ふたたび太政官出仕書記官に任ぜられる。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 四月 松田道之邸で市川団十郎らに歌舞伎改良を説く。 明治一三年(一八八〇)四八歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一○月 詩会「白鴎社」を創立する。 明治一四年(一八八一)四九歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 四ツ谷塩町に転居する。 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一二月 文部省権少書記官となり、編輯局・音楽取調掛に勤務する。 明治一六年(一八八三)五一歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 神田小川町に転居する。 明治一七年(一八八四)五二歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 六月 『譚海』刊行。 明治一八年(一八八五)五三歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 三月 文部省を退官する。 明治二○年(一八八七)五五歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 一月 『吉野拾遺名歌誉』刊行。 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 七月 『侠美人』刊行。 明治二一年(一八八八)五六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 七月 「演劇矯風会」が発足し、参加する。 明治二二年(一八八九)五七歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 歌舞伎座開場。以後、団十郎と疎遠になる。 明治二四年(一八九一)五九歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一一月 男女合同改良演劇済美館の旗揚げ興行を行う。 明治二七年(一八九四)六二歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 二月 「史談会」に出席し、堀田正睦の事蹟を発表する。 明治三七年(一九〇四)七二歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ] 二月 日露戦争開戦。 明治四一年(一九〇八)七六歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一二月 牛込区新小川町三丁目二番地に転居する。 明治四二年(一九〇九)七七歳 [#10字下げ、折り返して14字下げ]一二月 二七日、没す。谷中墓地に葬られる。 [#改ページ]  主要参考文献 『学海日録』一二冊 岩波書店 平成二〜五年 『依田学海作品集』 依田学海作品刊行会 平成六年 今井源衛『墨水別墅雑録』 吉川弘文館 昭和六二年 『学海遺稿』二六冊 無窮会図書館所蔵草稿本 『近代文学研究叢書』第一○巻「依田学海」 昭和女子大学光葉会 昭和三三年 白石良夫・法月敏彦・渡辺憲司『江戸のノンフィクション』「戊辰の嵐」 東京書籍 平成五年    *   *   * 『復古記』一五冊 内外書籍 昭和四〜五年 『維新史料綱要』一○冊 維新史料編纂事務局 昭和一二〜一八年 『明治天皇紀』一三冊 吉川弘文館 昭和四三〜五二年 『続徳川実紀』「慶喜公御実紀」 国史大系刊行会 昭和一一年 『徳川慶喜公伝』八冊 龍門社 大正六年 『新聞集成明治編年史』一五冊 財政経済学会 昭和九〜一一年 『明治文化全集』第一巻「憲政篇」 日本評論新社 昭和三〇年 『新聞薈叢』 岩波書店 昭和九年 『史談会速記録』 史談会 明治二五〜昭和一三年 『旧幕府』 冨山房 明治三○〜三四年    *   *   * 『維新史』六冊 維新史料編纂事務局 昭和一四〜一六年 徳富蘇峰『近世日本国民史』 時事通信社 昭和三五〜四〇年 佐々木克『戊辰戦争』 中央公論社 昭和五二年 『日本の歴史』第一九・二○巻 中央公論社 昭和四一年 『明治維新人名辞典』 吉川弘文館 昭和五六年    *   *   * 『佐倉市史』三冊 佐倉市 昭和四六〜五四年 『佐倉市誌資料』四冊 佐倉市公民館 昭和三二〜三七年 木村礎・杉本敏夫編『譜代藩政の展開と明治維新』 文雅堂 昭和三八年 『新編物語藩史』一二冊 新人物往来社 昭和五○〜五二年    *   *   * 服藤弘司『大名留守居の研究』 創文社 昭和五九年 山本博文『江戸お留守居役の日記』 読売新聞社 平成三年 笠谷和比古『近世武家社会の政治構造』 吉川弘文館 平成五年 白石良夫《しらいし・よしお》 一九四八年生まれ。九州大学大学院修士課程修了。専攻は国文学(近世・近代文学)。北九州大学講師を経て、現在、文部科学省教科書調査官。専門分野を越えて、雅文芸周縁の文化史・思想史等のフィールドでも活躍。『学海日録』の共編者としてその興味の幅を維新史まで広げた。著書に『広益俗説弁』、『江戸のノンフィクション』(共著)などがある。 本作品は一九九六年七月、ちくま新書として刊行された。